短編№2 ロッカー番号二十番の神様⑥
「倉本。二年と一年連れて先にトラック走ってて。周回数は任せる。それが終わったら自主練してて。」
「はいっ!」
松井に指示を出された二年生部員の倉本は、まるで将軍に命令されたかのように緊張がこもった短い返事をし、部員達をトラックへと先導していった。
「・・・で?」
「えっ・・・」
「何か話があるんでしょ?」
未だ声色が丸みを帯びない松井の言い方は、生徒が謝りに来たことを知りながら話を促す教師のようだった。
「えっと・・・、松井さんってさ、泉さんと仲良いよね?」
「・・・それがなに?」
「いやあ・・・、泉さんって、なんであんなに足遅いのかなって・・・。」
恐る恐る橋本が本題に近づけていくと、松井の表情が更に冷たくなった。
「彩花に直接聞けば?」
「いやまあ、それはごもっともなんだけど・・・。」
橋本が言葉を濁していると、佐藤に呼ばれていた石田が戻ってきた。
「今日も自主練だってよ。」
抑揚のない言い回しで石田が報告をした。これで陸上部は一週間連続で自主練だ。だが、例え佐藤がいても何かを教えてくれるわけでもないので、部活動に支障はないのだが。
「わかった。じゃ、橋本。私も後輩に合流するから。さっきの話は彩花に直接して。」
石田からの報告を受けると、松井はそう言ってトラックの方へ行ってしまった。
「橋本、俺らも練習するぞ。」
「・・・おう。」
松井の協力は得られそうにない。橋本はそう諦めて、ストレッチを始めた。
既にトラックを周回していた後輩部員の一番後ろで、千秋は走り始めた。
・・・泉さんって、なんであんなに足遅いのかなって・・・
橋本の言った言葉が、頭の中でリピートされている。どうやら、当たって欲しくなかった予想が、当たってしまったようだ。
橋本は、彩花の手紙を読んだのだ。
彩花が手紙を二十番目のロッカーに入れた日の放課後、陸上部の活動が終わり、千秋は出席番号二十番の男子を逃がすまいと慌ただしく着替えていた。
教室にあった出席簿で、千秋はその男子の名前を見た。そして幸か不幸か、その名前は千秋もよく知っている男子の名前だったのだ。
制服以外での登下校を禁ずるという校則を恨めしく思いながらも、彩花は素早く格好を整えて更衣室を出た。外に出ると、丁度薄汚れた部室の前で目的の男子と陸上部部長の石田が話をしているところだった。近寄っていくと、男子は校舎の方へと歩き出した。それを見て千秋は、思わず声を出していた。
「おい。」
自分の声が女子とは思えないほどの低音で出たことに驚きつつ、千秋は男子生徒を見た。
「・・・はい、何でしょう松井さん。」
千秋の声に、橋本はビクリと目に映るくらいに身体を震わせ、振り向いた。
こいつとは一年生の頃から同じ陸上部の仲間だが、未だに警戒感と恐怖を抱かれていることに千秋はすっかり閉口している。
「数学に宿題なんか出てないぞ。」
千秋は橋本の嘘を問いただした。数学の宿題が出てないことは確かだ。おおかた他クラスの石田ならば騙せると踏んでの嘘だったのだろう。
嘘がばれた橋本は困惑の表情を浮かべたが、直ぐに口を開いた。
「そうだっけ?ま、まぁ、俺は数学苦手だし、テストに向けて予習しとかないと赤点貰っちゃうからね。ちょっと取りに行ってくるわ。」
そう言うと、そそくさと教室がある校舎に向かってしまった。
千秋は、橋本を追うべきか迷っていた。千秋には、今すぐにでも橋本に確認したいことがあったのだ。
ロッカーの神様は、橋本なのではないか、と。
何故、願いを入れる手紙が二十番のロッカーなのか。彩花に聞いた限りそこには明確な理由がない。おまけに叶う願いは一ヶ月に一つだけ、それも必ず叶うわけではないなんて、そんな注意事項が書かれた神様、そもそもいるかどうか怪しいところだ。でも・・・、
これが橋本の自作自演なら、腑に落ちるのだ。
なんのためかは知らないが、橋本が自分でロッカーの神様を演じ、噂を流した。それをどういった経路かは知らないが彩花の姉が聞きつけ、妹の彩花の耳に入った・・・。
多少無理があるが、充分にあり得る仮説だと千秋は考えていた。もし千秋の推理が正しければ、橋本は願いが書かれた手紙を取りに、見え透いた嘘までついて教室に向かったということだ。
・・・なぜ、そんなお節介を、橋本はしているのだろう。千秋は気になっていた。それにお節介をするにしても、わざわざ神様を模す必要は無かったと思う。困っている人を探して、助けてやれば良い。その行動が半ば変質者であることを理解しながらも、千秋はそう思っていた。
充分に橋本との距離が離れたのを確認して、千秋も校舎に向かって歩き出した。何故ロッカーの神様をしているのか橋本を問いただすには、もう少し確証が欲しい。手紙を手に取ってバックにでもしまうところを見られれば、確かな証拠になる。何故なら・・・、彩花が手紙を入れた時、橋本のロッカーの中は空だったのだ。そこに教科書など入ってはいないことを橋本は知っている筈だ。恐らくは、手紙を入れに来た生徒がある種の神秘的な感想を抱くように、空にしているのだろう。千秋にしても、教科書やノートで溢れたロッカーより、何も入っていない綺麗なロッカーの方がそこに神様がいるように思える。
事件の現場を押さえてやろう・・・。そんな刑事のような心持ちで橋本を追おうと歩みを早めた。その時。
「ま、松井先輩!」
後ろから聞き覚えのある声に呼び止められた。思わず振り向くと、倉本が直立不動で突っ立っていた。
「もし良かったら・・・、一緒に帰りませんか?」
目線を泳がせながら、倉本は言った。洒落たボブの髪型が、風になびいている。前髪はピンクの小さい花が一つ付いた髪留めでまとめてあった。地味な黒の髪留めしか持っていない千秋には、少し羨ましく見えた。
「お話したいことがありまして、もし先輩がいいなら・・・。」
段々と声を小さくしながら、倉本は千秋を誘った。千秋は倉本には返事をせず、校舎の方に目をやった。視界に捉えていた橋本は、もう見えなくなっていた。今から追いかけても、橋本が手紙を手に取る現場は見えないだろう。
「わかった。じゃあ一緒に帰ろう。」
「あ、ありがとうございます・・・!」
返事を返すと、倉本は嬉しそうに笑った。
「それで、話ってなに?」
校舎から最寄りの駅まで続く一本道を、千秋は倉本と一緒に歩いていた。
「えっと・・・」
倉本はさっきからずっと言葉を濁している。部活ではハキハキと受け答えをするし、大会では思い切ったレース運びをするタイプなのに、陸上を離れるとこうも違うのか。煮え切らない倉本の態度に、千秋は苛立っていた。
「ハッキリ喋ってよ。話したいことがあるんでしょ?」
「えっと、じゃ、じゃあ、速く走るコツって何ですか。」
「・・・わざわざ私を呼び止めておいて、聞きたかったことって、それだけ?」
拍子抜けをするような質問に、即座に千秋は答えにならない返事を返した。自分でも、苛立ちが籠もった言い方をしたと思う。けれど実際に私は苛立っているんだから、それを隠す意味なんてない。
「ロッカーにでも聞いてみたら?じゃあね。」
千秋は倉本にそう言い捨て、わざと道を曲がった。倉本は、後を追っては来なかった。
倉本に呼び止められていなければ、疑問を消し飛ばす重要な場面を見られたかもしれないのにと千秋は悶々としていたのだが、今日仮説は立証されたと言って良い。橋本は彩花の手紙を読んだのだ。橋本は・・・何故かは知らないが・・・、ロッカーの神様を演じている。
「松井先輩っ!」
不意に思考の外側から言葉をぶつけられて、千秋は我に返った。気がつくと後輩の面々は周回を終え、グラウンドの中央に集まっていた。千秋一人だけが、トラックを走っていたのだ。
「どうしたんですか?まだ走りますか?」
千秋を心配してか、倉本が駆け寄ってきた。月初めの日の後も倉本は毎日部活に顔を出し、千秋にもいつもと変わらずハキハキと会話をしている。
本心では私の事をどう思っているのだろう。やっぱり怖くて、逆らえない先輩だとけむたがっているのだろうか。けれど、たとえそう思っていたとしても表に出さず会話をする倉本を、千秋は少し尊敬していた。そんな事は、私には到底出来ない。
「ごめん。考え事してただけ。」
本心から千秋は返答をし、後輩の輪の中に向かった。