トマト在住の青年による執筆活動

短編の小説を書いていきます。不定期・自己ベスト更新です。たまーに自分勝手な記事も書きます。

短編№1 拝啓、白猫より②

 さあ、まずは僕が人間だった頃の、一つの事件を書いてみようと思う。多分、あの事件を起こしたから、僕は神様に目をつけられて、こんな姿になったんだろうから。
 
 夏はとっくに過ぎ、秋も半分くらい過ぎたあの日、僕はいつものように昼になるまでベッドの上でごろごろとしていた。

 本当なら高校に行かないといけないけれど、二学期が始まってから僕は一度も学校に行っていなかった。要するに不登校というやつだ。けれど、別に苛められたとか、勉強について行けないとか、好きな子にフラれたとかいう、ありきたりな理由があるわけではない。確かに、彼女はおろか友達もいなかったし、成績もビリに近かったけど、そんなことは我慢して登校することも出来る。

 ただ僕は、その我慢をしたくなかったんだ。
 小さいときから、何かに秀でたものを持っているわけでもなく、ただ敷かれたレールの上を進んできた。レールは時々向きを変えて、僕は体操教室に通ったり、ピアノを習ったりした。けれどただレールの上を走るだけの僕は、土台の変化に感化されることはなく身体だけを大きくした。やがてお父さんが死んで、レールが向きを変えなくなると、僕は社会に向けて真っ直ぐ走る一本道を何も考えずに進んだ。

 そして高校三年生になった今、僕は初めてレールから自力で脱線し、ひっくり返ったまま止まっているのだ。
 ベッドの上で、すっかり冴えてしまった目を無理矢理閉じ、僕は思考を巡らせる。

 学校に行く意味はあるのだろうか。ただただ、我慢をして勉強に明け暮れ、社会に出る準備をする。そして社会に出ても、ひたすらに我慢の日々だ。自分たちで作った紙切れと石ころみたいな金属の為に我慢して働き、自分たちで作ったルールで首を絞めながら生きる。そんな修行僧みたいな生活を僕はしたくない。でもレールの上に乗っている限り、僕も間違いなく修行僧コースだ。あとはただ、修行の成果を紙切れの量で見せ合いながら、寿命を迎えて死ぬ。なんだそれは。全然楽しくないじゃないか。
 それでも、僕が今までレールに逆らわずに進んできたのは、実は僕を導いているのはレールじゃなくて、レールを作った大人であり、レールを支える社会だと薄々気づいていたからだ。
 僕のレールを作ったのは父さんだった。僕の家では父さんの選択が正義で、母さんは正義を見守る銅像。そして僕は正義を執行される駒だ。僕は生まれてこのかた、父さんの思うままに生きてきた。けれど父さんも、僕を社会に向かう道を外さないようにレールを敷かされていたのだろう。悪いのは父さんじゃない。このきつく縛られた社会であり、世界だ。
 楽しい世界に生まれたかった。何よりも自分の思うままに生きても、白い目で見られない世界が欲しかった。お金が無い世界が良かった。仕事なんてしないで、人間としてではなくて、ただの生物として生きられる世界で暮らしかった。それが僕の理想郷だ。
 不意に下の階からジリジリと電話が鳴る音が聞こえてきた。高校からの電話なのか、それともキャッチセールスの電話なのかは分からないけれど、母さんがパートに出ている今、その電話に出る者はいない。電話は十回程コールをした後プツリと切れた。
 家に籠もりだしてから、高校からは数日おきに電話が掛かってくる。この間なんか、わざわざ担任が家まで来て話をさせろと言ってきた。心を閉ざした生徒を助ける為か、教育委員会に努力をアピールする為かは分からない。いずれにしても、高校はなんとか僕を登校させようと必死みたいだ。いくら家に引きこもって心を閉ざしても、完全に社会から逃げ出すことは不可能だ。小さな錆が抵抗した所で、歯車は回り続ける。 
 しかし、殆ど大人と変わらないくらいに大きくなった僕は、この社会に向かうレール、そしてレールを導く土台から脱出できるかもしれない方法を一つ発見していた。確実に成功する保証がないのは、たとえ成功しても、その様子を誰も見ることが出来ないからだ。けれど、今まで何人もの人が挑戦してきたこの方法が、恐らく一番可能性が高いのだ。
 ベッドから降りて、パジャマを着替える。箪笥の中で一番上等なズボンを穿き、白い新品のワイシャツにお気に入りの小豆色のセーターを着た。今日、僕は試してみようと思ったのだ。世界から脱出する方法を。
 身なりを整えると、僕は貯まった小遣いを握りしめ、玄関に向かった。さて、まずは最後の晩餐の調達だ。

 コンビニで買ってきた昼食をテーブルの上に並べる。チルドのオムライスに、イクラのお握りが一つ。コーラ一本。それとデザートのシュークリーム。全部で千円程だ。
 威勢良く外に出たのは良かったけれど、僕は最後の晩餐に何を食べるか決めていなかった。外食は慣れてなかったから家に持ち帰るのは確定としても、特に思い出のある食べ物が思い付かなかった。だから、コンビニで食べたいものを好きなだけ買うことにした結果、よほどこの世界での最後になる食事に見えない寂しいものになった。刑務所にいる死刑囚のほうがマシな晩餐をするかもしれない。
 元々僕は少食で、しかも食べ物に拘らない方だった。嫌いなものも無ければ好きなものも無い。出されたものは綺麗に食べるけれどおかわりはしない。そんな調子だったから、今更最後の晩餐などと意気込んでも、 それに相応しい食事を用意出来るはずも無かった。 けれど、ある意味この食事は死への階段を登る儀式みたいなもので、疎かにするのは後味が悪かったのだ。
 食事を終え、二階に上がる。部屋に入り、いよいよ死ぬ準備をする。机の上には、前もって書いておいた遺書が置いてある。内容は至ってシンプルだ。特に不満をつらつらと並べたわけでも無く、ただ葬式は簡素でいいと言うのと、一言母さんに、今まで育ててくれてありがとうと書いてある。自殺をして新たな世界に向かうなんて一言も書いていない。そんな突飛な発想をわざわざ書いても首をかしげるだけだろう。
 死んだ先に、何が待っているかなんて知らない。そもそも僕を待ち受けるものなんて無いかもしれない。物事を考える意識すらないかもしれないし、少しも変わらずループをして、この世界で生まれた時に戻るかもしれない。所詮あの世や天国や地獄なんてものは人間が都合よく考えた理想郷に過ぎない。そんなことは分かっているのだ。それでも、自分の理想郷にしがみついていかないと、絶望で気が狂ってしまう。  

 僕も、そして僕以外の人間も、きっとそうなんだろ?
 

 椅子の上に乗って、天井にフックを刺していく。ネジを押し込んでいく度に細かい木の粉がパラパラと落ちた。根元までしっかりと押し込んだら、太い麻縄をフックに結びつけた。さあ、いよいよだ。頭と同じくらいの大きさに作った輪っかを首に通す。今僕を支えている椅子をどかせば、僕の身体は宙に浮き、首が絞まって死に至る。
 同級生の皆。教鞭をとってくれた先生。お小遣いをくれた祖父ちゃん、祖母ちゃん。母さん。さよなら。僕は今から理想郷に向けて旅をする。

 お父さん。僕はそっちには行かないよ。僕とお父さんの天国は違うんだ。

 フッと息をつき、身体の力を抜く。目をつぶる。そして、トンッと椅子を蹴った。

  急に麻縄が僕の首を絞めた。細かい麻縄の棘が一斉に首の皮膚に突き刺さる。首筋に走る痛みと共に、急に胸の辺りから酸素を求める悲鳴が上がってきた。

 僕はたまらず口を開け、船上に揚げられた魚のようにぱくぱくと空気を求めたが、空気が肺に送られることはない。僕の首は今、完全に締め付けられているのだ。身体は麻縄から逃げようと、自殺の意思に刃向かい暴れ、足は地面を探して空気を蹴る。苦しい。身体が熱い。こんなに辛いなら別の方法を取ればよかったと嘆いてみても、麻縄は僕の首を固く締め付け、今更緩めてくれる気配はない。

 まだか。くそ、しぶとい身体だ。僕は一刻も早く楽になりたい。いい加減にくたばれよ!!
 ああ、苦しい、苦しい!
 もうすぐ、もうすぐ死ねる!
 僕には分かる・・・もうすぐ僕の身体は限界を迎え、魂を解放してくれる!  さあ、麻縄よ、僕を絞め殺してくれ!!
 死にたい!!死ぬ・・・死ぬ、死ぬ!!!
 
 ブズ!!!
 不意に聞こえてきた音は死を告げる合図ではなく、僕の身体は重力に負け、ドスンと床に落下した。せき止められていた空気が肺に入ってくる。いち早く酸素を全身に送ろうと、咳き込みながらも空気を吸う。どうしても身体は死のうと思わないらしい。
 僕は天井を見上げた。しっかりと刺した筈のフックが抜け、僕の身体は不覚にも助かってしまったのだ。やっぱり、首吊りじゃなくて飛び降りとかのほうがいいのだろうか。
 首筋に手を当てると、不気味な柔らかさに変化した皮膚から、鮮やかな血が手についた。首が絞まる苦しさを体感してしまったばっかりに、もう一度フックを刺して首吊りを図るのを躊躇っていると、扉の向こうで猫の脳天気な鳴き声がした。

 扉を開けると、一匹の猫が部屋に入ってきた。足の先から尻尾の先まで綺麗な黒い毛で覆われているから、僕と母さんはクロと呼んでいた。クロは最近、近所をフラフラとほっつき歩いている猫で、気が向くと僕の家に入れろと玄関の前に座っている。どうやら朝に猫好きの母さんが招き入れていたようだ。 
 自殺未遂の現場に現れたクロは、椅子と麻縄が散乱している床を刑事のようにじっと眺め、器用にぐるりと部屋を一周して、全てを見抜いたとでも言うように、ベッドの上に乗ってニャアと鳴いた。
 クロの頭を撫でる。艶のある頭は触っていて落ち着く。ぐるぐると喉を鳴らして気持ちよさそうにしているクロを見ていると、猫のような生き物がこの世界で一番楽しく生きているように思える。自由気ままに歩き、寝て、食べ物を貰う。可愛げのある声で鳴き近づいていけば、相当の猫嫌いでも無い限りは危害を加えることはないし、大抵の場合はまさに猫撫で声で頭を撫でてくれる。ただベッドの上で寝ているだけで癒やしだとか言って重宝される。

 人間の場合それはただのニートだというのに。
 次に生まれる世界では、猫の姿になってもいい。愛嬌たっぷりの猫になって、皆に可愛がられながら生きて、日向で一日中、日光浴をしていたい。
 その時、撫でられる事に飽きたのか丸くなって寝ているクロを見て、不意に僕は思い付いた。
 クロも、世界を超える旅に連れて行こうかな、と。
 死んだ後で、僕と同じ場所にクロと一緒にいるかは、死んでみないと分からない。そもそも、僕は父さんのいる所には行きたくないのに、クロとは一緒の所に行きたいと言っているのだから、我が儘も良いところだとは思う。けれど、元から都合良く考えた可能性に縋り付いているのだし、この際とことん都合良く考えてもあまり変わらないと思う。
 自殺を考え始めた頃から、死んだ先に知り合いがいないのが一番の問題だった。けれど、僕と一緒に死んでくれる仲の良い友達などいるはずもないし、母さんに頼むのも気が引けた。それで同行者は諦めていたのだけれど、クロは適任だ。言葉が通じない分、クロがどれだけ反対し、自殺を否定し、説得を始めても耳に入ってはこない。クロが一緒なら、心細い一人旅では無くなるし、たとえ真っ白な何もない空間に飛ばされても、頭を撫でて気晴らしが出来る。
 台所から包丁を持ってきて、自分の胸に刃を向けてみる。この両手で持った包丁と胸の間にクロを置き、思いっきり包丁を心臓めがけて刺せば、僕とクロはほぼ同時に死ねるだろう。包丁で自分を刺すのはあからさまに痛そうなので避けていたのだけれど、クロと一緒ならなんとなくその痛みも和らぎそうな気がした。
 ベッドに仰向けで寝て、胸の上にクロを置く。クロは何だか不思議そうに首をかしげたように見えた。けれど大人しく僕の上で座り、じっと僕の顔を見つめている。僕は、包丁を両手で祈るように持ち、クロの上で構えた。

 ・・・クロ。一緒に行こう。

  僕は思いっきり包丁を突き刺した。ごりっとした、骨を掠めたような感触が包丁を通し手のひらに伝わる。包丁が突き刺さった瞬間、クロは一度大きく身体を震わせた。艶々の黒い毛が棘のように逆立って張り詰めた。僕を見つめていた丸い目は、眼球が飛び出そうな程の凄みをきかせ、視点を宙に逸らしたままぴくりとも動かない。その様子はまるで、自分は命を宿していた者であることを、周囲に、つまりは僕に訴えているようにみえた。しかし、一瞬の訴えもつかの間、張り詰めたクロの毛は力なく倒れ、宙に逸らした目からは凄みが消えた。ああ。これが、死なのか。生気が、魂が抜けていく様子なのか。今まさにクロの目に見えぬ魂は器であった黒猫から抜け、新たな世界へ旅立とうとしている。
 僕はいつの間にか、包丁の動きを止めていた。僕の身体にはまだ刃が届いていない。もう少し力を込めて包丁を押せば、刃はクロの身体を貫通し、その勢いのまま僕の身体に、心臓に刺さるだろう。そうすれば、僕は死ねる。クロと共に、新たな世界へと旅立つ事が出来る。そう思うと、僕の手の平から汗が滲んできた。このままじゃ、クロに寂しい思いをさせてしまう。僕はもう一度力を込め、包丁を押した。クロがまたぴくりと、けれど今度はずいぶん弱々しく震えた。突然痛みが全身を駆ける。痛い。包丁の先端がついに僕の胸まで届いたようだ。まさに突き刺すような痛みだった。けれど、恐らく包丁はまだ、僕を死に至らしめる深さまでは刺さっていない。もう少し。もう少し深く刺さなければ。身体の穴という穴から吹き出る汗と共に力を振り絞り、僕は包丁を更に深く刺し込んだ。包丁を心臓に向け進ませる度に、かけ算のように痛みは増していく。死ぬと言うことはこれ程までに痛いのか。いや、もっと良い方法がある筈だ。痛みを伴う死の淵に自らを追い込んでおいて、まだ僕は痛みから逃げようと思考を巡らしていた。毒薬。毒ガス。飛び降り。人身事故。まだまだ自殺の方法はある。

 わざわざ、こんな死に方をしなくてもいいだろ。

 そんな思いが包丁を奥へと進める手を止めていた。クロには、後から追いつけばいいさ。どうせ僕はこの世界で生きる気は無いんだ。それより今は、この痛みから逃げたい。

 もう・・・耐えられない。

 僕は痛みから逃げるように包丁を抜いた。ずぶっと鈍い音が部屋に響く。クロは震えなかった。包丁を抜いた傍から血が吹き出し、顔に掛かった。不気味な生暖かさがそれにはあった。猫という生き物の中に入っていたとわかる生暖かさが。クロはだらりと力なく伸び、動かない。ベッドから身体を起こす。ぬいぐるみのように胸の上からクロがごろりと転がり落ちた。自分の胸を触ってみる。おびただしい量の血は殆どクロのもので、僕の胸は軽く切れ込みが入っただけだった。
 クロのお腹の辺りに手を当ててみる。いつもならポンプのように膨らんだり萎んだりして動いているのに、今は平らになったまま動かない。

 クロは死んだのだ。
 全く動く気配のないクロを見つめているうち、後悔の念が込み上げてきた。僕の我慢が足りなかったせいで、クロを先に行かせてしまった。クロは、死に至る痛み、苦しみを受け止める事しか出来ず、そのまま死んだ。僕は、自分の意思で胸を刺すがために、痛みからの逃げ道があったのだ。自殺の意思とは関係ない、生物の本能のようなものが働いてしまったのだ。
 ごめんよクロ。今すぐに僕もそっちに行きたいけど、今日、僕は痛みに勝てそうにないや。けれど、近いうちに必ず僕は自殺をしてみせる。次は、飛び降り自殺をしよう。
 「ただいまー。」
 突然、睡眠状態をたたき起こすように母さんの声が耳に入ってきた。パートから帰ってきたのか。時計を見ると既に夕方だった。
 「・・・祐介ー。いないのー?」
 母さんが僕を呼んでいる。それはまるで、脱獄者を捕らえようとする看守の声にも、遭難者を探すレスキュー隊の声にも聞こえた。
 「いるよー。お帰り。」
 僕は部屋から大きな声で返事をしながら、無意識にベッドカバーを剥がしてクロを包んでいた。

 これで、事件の話は終わり。僕は死にたくて死にたくて、でも死ねなかった。それで、つい出来心でクロを殺してしまったんだ。でも、これだけじゃあ、まだ僕が白い猫になったわけなんて理解出来ないでしょう?大丈夫。物語はここから後半戦だから。では。