トマト在住の青年による執筆活動

短編の小説を書いていきます。不定期・自己ベスト更新です。たまーに自分勝手な記事も書きます。

短編№1 拝啓、白猫より④

 

 白猫になった僕は、その足で人間だった頃住んでいた家の前まで帰っていた。

 まさか、猫の足ではここまで来るのに半日かかるとは思わなかった。ずっと休み無く歩き続けて、身体はくたくただ。コーラを飲んで、ベッドで横になりたい。けれど、いくら玄関の前で待っても扉が開く気配はない。おまけに、僕は「開けて!」と言っているつもりなのに、「にゃあ!」と甲高い声しか出ないのでイライラする。
  僕は、ドアが開かない理由を薄々気づいていた。商店街を通って来たとき、向こうからパトカーが走ってくるのが見えた。急いで道の端に逃げると、目の前をパトカーが通り過ぎた。その時だった。

 パトカーから微かに、覚えのある匂いがしたのだ。

 どうやら猫は人間より鼻が効くらしい。行き交う人の匂い、自動車から出るガソリンの匂い、お肉屋のコロッケの匂い。その全てを、人間の鼻より逃がさず、敏感に捉える。

 そしてあのパトカーからは、母さんがいつも付けていた香水の匂いがしたのだ。母さんは外に出かける時、いつも同じ香水をつけていた。だからその鼻につく匂いは覚えていたのだ。
 パトカーは真っ直ぐに僕の歩いてきた道、つまりあの森の方へ走っていった。昨日、母さんは森の方に向かって走る僕の姿を見ていた。そして僕はその夜、家に帰ることは無かった。警察に連絡を入れても不思議じゃない。そして、多分警察は僕の死体を見つけて、母さんに知らせる。森の奥で死んでいたのだから、ある程度、捜査も行われるはずだ。結論は、ただの心臓発作による病死になるはずだが。
 今頃、母さんは警察の捜査に協力したりして、当分家に帰ってはこないだろう。新米の猫である僕は、ここで母さんを待つしか食事のツテが無かった。ぐるぐると家の周りを周回し、そのうちそれも飽きて、じっと扉の前で丸くなった。
 こんな時、お金があったらとこの時ほど思ったことはなかった。僅かでもお金があれば、その場しのぎではあるけれど空腹を紛らす食事を取ることが出来る。そればかりか、ある程度まとまった額があれば、ホテルに逃げ込んでたんまり食事を取り、フカフカのベッドで寝ることも出来る。そんな生活が出来る環境につい昨日まで身を置いていたのに、今は凍てつく冬の風に吹かれながら、固いコンクリートの上で丸くなり、空腹に悶え苦しんでいる。天と地の差だ。まだ勝手が分からない不自由な身体に、この貧しさは堪えた。

 くそ。こうなったら手当たり次第に灯りのともっている家のまで鳴き喚き、ご飯と水をねだってみるか。そう決意した時。

 不意に、あの香水の匂いがした。
 家のある路地の入り口に、母さんはふらりと現れた。いつも来ている茶色のロングコート姿の母さんは、ゆっくりとこちらに向かってくる。その姿は、きっと家族を亡くした誰もが陥る、僕が心の何処かで予期していたままだった。いつも浮かべていた笑みはなく、ぼうっと遠くの地面を眺めているように見える。足取りもフラフラと、どことなく危なっかしい。その姿は、とても直視できるものでは無かった。僕はたまらず目を玄関の方に逸らした。母さんは、きっと僕が死んだ事を知ったんだ。もしかしたら、雪山に横たわる僕の死体を、直に見たのかもしれない。母さんは、きっと悲しんでいる。そして、その原因はきっと僕だ。僕が母さんを悲しませた。こうなることは、分かっていた筈なのに。 
  直ぐ後ろに人の気配を感じる。母さんが家の前まで来たようだ。僕は振り返らずに、母さんの出方を窺った。母さんは、ゆっくりと僕に近づいてくる。母さんの靴が、僕の身体を掠めた。僕は徐々に多くなる心拍数を気にしながら、母さんの挙動一つ一つに意識を傾け、逃さないよう集中した。
  母さんはゆっくりと、けれど足を止めることはなく僕をまたぐと、玄関を開けて中に入り、扉を閉めた。まるで僕の事なんか、気にも止めていなかった。
 僕はただ呆然と、閉まった玄関の扉を眺めた。

 母さんは、僕を完全に無視した。僕の事なんか、どうでもいいのだ。考えなくても、そんなことは分かっていた。今、僕は悲しみに包まれた母さんを支えるべき家族じゃない。

 ただの真っ白い猫なのだから。

 それでも、と僕は気力を振り絞り、玄関のレバーを睨んだ。それでも、僕は家に入らないといけない。食料と水の確保、そして母さんを見守り、支えるため。自分が母さんを悲しませたという強い罪悪感が、自殺未遂を繰り返した頃には考えもしなかった程に、母さんに奉仕をするという罪滅ぼしへと身体を動かしていた。
 への字のようなレバーに向かって思いっ切りジャンプをし、前足をかけようと試みる。母さんが家に入った後、ガチャンという仕掛けを動かすような音はしていない。つまり、この玄関に鍵はかかっていないはずなのだ。前足でレバーを下げれば、自然とドアは開くはず。二回三回とジャンプをして挑戦したが、上手く足がかからない。前足に力を込めることが出来ないのだ。僕は自分の真っ白な前足を憎んだ。確かに、寝ているクロの前足を弄ったとき、関節はふにゃふにゃと力なく曲がったことを覚えているが、まさかこの姿になって関節が柔らかいか確認をしたいわけじゃないんだ。  

 畜生。
 

 すると一瞬、身体中に力がこもるのを感じた。そうか!都会に住む猫が力を込める時、それは怒った時だ。怒りのままにレバーに飛びかかれば、きっと上手くいく。
 怒りの感情をどう引き出すか数秒の間思考を巡らし、僕は、僕を責めることにした。
 
 何が新しい世界だ。この世界で上手くやれないからって逃げやがって。現実逃避野郎。お前の悩みなんか、自殺する価値もねえんだよ。世の中にはな。お前なんかよりもっと大きな悩み抱えて、それでも生きようって人も沢山いるんだよ。途方も無い借金抱えたって、大切な人に裏切られたって、今日食う飯すら無くたって、自分に残されたもんから光を見つけ、それをたぐり寄せて、懸命に生きようってもがいてんだよ!
 お前、何もしてねえじゃん。借金無し。裏切ったわけでも裏切られたわけでもない。飯は三食、作ってくれる家族がいる。恵まれてんだよ。お前は。恵まれてんのに、これからの人生を悲観して、ろくに頑張りもせず逃げ回って、しまいにゃ都合良く考えて自殺!?
 ナメすぎだろお前。そりゃ神様怒るって。お前なんか、何処に行っても逃げるだけ。ああ、この世界もつまんないから逃げよーって。すぐ自殺。次の世界でも同じ。すぐ自殺。現に今お前、なりたかった猫になったのに、すっかり嫌気がさしてんだろ?ちゃんと自分と向き合えよ!自分の持ってる光に気づけない奴になんか、明るい未来なんて来るわけねえだろ!!!
 もう一人の、ずっと心の何処かにいた自分が、抗議をした。僕は、まるで決まり切ったかのように、一言だけ返答する。
 
 そんなこと、分かってんだよ!!!
 
  やり場のない怒りの矛先をレバーに向け、僕は跳躍の姿勢を作る。全身の毛はいつの間にか逆立ち、前足からは爪が飛び出た。身体をぎゅっと縮め、後ろ足に力を込めて、地面を蹴った。レバーに向かって体当たりをする。勢い余った僕は、レバーより上の鍵穴に頭をぶつけた。ごんっという音と共に痛みが走る。視点が揺れて定まらない。けれど、僕の前足はしっかりとレバーを捉えていた。身体が落ちる勢いと共に、飛び出た爪がレバーに引っかかり、力のこもった前足は、レバーを思いっきり下げた。
 どんっと音を立てて、僕は地面に落下する。それとほぼ同時に、玄関は僅かに開いてくれた。
 僕は起き上がり、見慣れた、飾り気のない玄関にすっと入った。
 ガチャーン!!
 突然上の方から大きな衝突音がした。咄嗟に、全身に得体の知れない緊張が走る。・・・母さん?一体何をしているんだ?
 跳ねるように階段を駆け上がる。勢いよく二階に上がり、リビングを一瞥したが、そこに母さんの気配はない。三階にいるのか。再び階段を上ろうとしたその時、階段の上からどたどたと本が数冊落ちてきた。・・・これは、僕が好きで、集めていた漫画だ。母さんは、一体何をしているんだ?
 階段を上り、開きっぱなしの僕の部屋の中は、惨劇だった。
 「うあああああああ!!!!!」
 言葉として聞き取れない奇声を張り上げ、母さんが部屋を荒らしていた。

 本棚に並べた漫画や小説を床に投げ捨て、赤ん坊のように箪笥の服をまき散らしている。壁に向かって投げられた携帯ゲーム機が、ドンッ!と音を立てて落下した。怒っている母さんすら見たことが無い僕は、別人のように狂乱している母さんをみて狼狽えるしかなかった。
 「にゃっ、にゃあ!」
 声をかけてはみるのだが、人間の声ならまだしも、理解不能な猫の声では母さんに届くわけもなかった。母さんは僕の部屋にある、ありとあらゆる物を投げ捨て、これでもかと荒らした。死んだ息子の痕跡を必死に消そうとしていたのかも知れないし、自殺の理由の手がかりを探そうと躍起になっているのかもしれなかった。

 ただ唯一分かるのは、母さんを狂わせた原因は、僕であるということだけだ。
 「うー・・・」
 僕は喉を鳴らしながら、思わず部屋を出てしまった。

 暴れ狂う母さんの姿を、止めることすら僕は出来ないのだ。全て僕のせいなのに。 

 僕が死んだせいなのに。

 神様が僕に科せた罰が、ボディブローのようにじわじわと効いてきた。死んでしまえば、普通なら残された家族の姿を見ることは恐らくない。だから僕も、自殺をする時に脳裏を過ぎる母さんの泣き顔を、自分とは関係ない事と無視していた。それどころか、母さんは僕が死んでも、何も変わらずいてくれると幻想すら抱いていたのだ。それは、母さんを悲しませたくないという思いから出た、身勝手な期待であり、逃避だった。
 悲しませたくないなら、死ななきゃ良かったのに。
 心に巣くうもう一人の僕が、僕を責め立てる。だから僕は、やっぱりお決まりの台詞を返す。
 そんなこと、分かってんだよ。
 僕だって、分かってたんだ。母さんの微笑む顔を歪ませないためには、生きること。方法はそれしか無かったし、それだけで良かった。高校生だった僕には、それくらいしか母さんは求めてなかった。勉強を強要されることも、進路を強制されることも、思想を植え付けられることも無かった。ただ、毎日三回、絶やすこと無くご飯を作ってくれた。それは、僕に生きて欲しいという、ただ一つの願いだったように思う。
 いつの間にか、僕の部屋から騒音が消えていた。恐る恐る、中を覗く。
 母さんは、物で散らかった床に力なく座り、ベッドに顔を突っ伏していた。静かに鼻をすすり、嗚咽を漏らしている。
 僕は母さんの傍に寄った。ただの白い猫と化した僕には、何も出来ない。けれど、この場から音も無く立ち去ることは、どうしても出来なかった。
 母さんが、僕に気づいたようだ。ぐすぐすと噎び泣きながらぐるりと僕に泣き顔を向け、僕の頭を撫でた。まるで、自分の荒れた心を、落ち着けるように。
 「ごめんね、うるさかったね。どこから来たの?」
 今僕は、どんな顔をしているのだろうか。目つきの悪い、無表情の野良猫の顔つきをしているのだろうか。綺麗な丸い黒目の、可愛い家猫の顔つきだろうか。少なくとも僕の心は、幾つもの感情でかき混ぜられてぐちゃぐちゃになった、見るに堪えない泣きっ面だ。
 「この部屋にいた子ね、死んじゃったの。今日森の奥でね、雪に埋もれて死んでたの。私の息子。たった一人の家族だったの。」
 ぽつり、ぽつりと、母さんは言葉を僕に落とす。僕はそれを、ただ受け止めていた。
 「物静かでね、文句一つ言わない子だったの。赤ちゃんの頃ね、中々喋り出さないから、お父さんと二人で心配してたんだよ。この子、口がきけないんじゃないかって。」
 母さんは僕の思い出話をして、今日初めて、少しだけ微笑んだ。けれど、涙でぼろぼろに崩れた化粧と、一向に戻らない鼻声は、帰って背負い込んだ悲しみを強調して見えた。
 「心臓発作だって。死因。心臓発作。警察の人が言うんだから、間違いないのよね。なのに祐介、遺書なんか書いてたんだよ?あの子にしては綺麗な字で、たった一言だけど、ありがとうって。自分が死ぬ事、あの子分わかってたのかしら。」
 母さんの足下には、僕が書いた遺書が落ちていた。びりびりに破かれた無残な姿で。
 「にゃあ。にゃあ!」
 わかってたよ。わかってた。だって、僕は自殺をしにあの森に入ったんだ。ごめん。母さんごめん。
 僕は思わず口を開いた。甲高い、空気の読めない鳴き声が部屋に響く。ああ、もどかしい。猫の姿じゃ、一言も伝えることが出来ないじゃないか!
 「ねえ、猫ちゃん?普通、突発性の心臓発作で、遺書なんて残らないよね?あの子、自殺したのよ。きっとそうよ。だってあの日の夕方、商店街で私を振り払って逃げたのよ?そんなこと今まで無かった。顔は見えなかったけど、あの後ろ姿は祐介よ。あの子、ちょっと猫背気味だからすぐ分かる。」
 母さんは、だんだんと声が大きくなり、捲し立てるように僕に話をぶつけた。
 「警察に何度も言ったわ、自殺じゃないのって。でも違うって。心臓発作だって。私は信じない。あの子は自殺したのよ。絶対そうよ!」
 また、母さんの落ち着きが無くなってくた。僕の頭を撫でる力が強くなる。かと思うと、両手で僕の頬を押さえ、思いっきり顔を近づけた。母さんの額と、僕の頭がくっつく。
 「私は、あの子を助けられなかった。死にたいくらい悩んで、苦しんでいた祐介を、助けてあげられなかった!祐介には、自由に生きて欲しかったの。父さんが、祐介に色々教え込んで、それが逆に祐介の未来を締め付けてるって、思ったから!だから、祐介に任せたの!祐介の好きなように、生きて欲しかった。私はただ、祐介が元気に育ってくれれば、それで良かった!!!なのに、それなのに!助けられなかったの!!!」
 吐き捨てるように、母さんは叫んだ。呼吸が熱を帯びていた。僕の顔は、母さんの涙で濡れていた。僕はただ、母さんの懺悔を聞いていることしか出来なかった。
 「なんで、なんで死んじゃったの?祐介。何でも良いから、言って欲しかった。力になりたかった。死んで欲しくなかった・・・!」
 天国の僕に向けて言ったであろう母さんの言葉は、目の前にいる僕に突き刺さった。鋭利なナイフで胸を突き刺した時より、よっぽど痛い。
 「にゃあ・・・!にゃあ・・・!」
 ごめん。母さん。何にも言わずに死んでごめん。謝るから、泣かないで。頼むから、泣かないでくれよ母さん・・・!僕のせいだよね、僕のせいで泣いてるんだよね。だけど、僕はこれ以上、母さんが泣いているのを見ていられない・・・!
 「にゃあ!にゃあ!にゃあ!」
 呻くように、身体から絞り出すように、絶えず僕は鳴いた。母さん、自分を責めないで。母さんは悪くないんだ。僕が悪いんだ。だからお願い、泣かないで!
 「・・・変な猫ね。心配してくれてるのかしら。」
 吐き捨てるような勢いのあった母さんの鼻声に、いつもの柔らかさが少しだけ戻った。よかった!!僕は心の底から安堵した。何とか、母さんの涙を止めることが出来た。そんな安堵感からか、急にお腹がぐうーと音を立てた。なんて緊張感の無い音だ。
 「ふふ、ご飯にしましょうか。お腹空いたでしょ。」
 母さんは顔を拭いながら立ち上がった。その姿は、災害から生き残ったか細い木のように、懸命に命をたぐり寄せているように、僕には見えた。

「猫ちゃんお食べ。丁度キャットフードは切らしてたから、猫まんまで我慢してね。」
 母さんが小皿にご飯と鰹節を入れて持ってきた。僕はそれを貪るように食べた。美味しい。ここまで美味しい食事を取ったのは初めてかもしれない。僕は顔をあげて、母さんを探した。美味しかったと、伝えたかった。
 母さんは、リビングにいた。ソファに座って、ぼうっと宙を見ている。
 母さんに向け、美味しかったと言おうと口を開けようとして、やっぱり止めた。
 こんな時、今の僕には何が出来るのだろうか。今の僕が何を言っても、母さんには正確に伝えることは出来ない。口頭も、勿論筆談も出来ない。なら、母さんを思う猫なら、こんな時は何が出来る?
 考えて、考えた末。
 僕はゆっくりと母さんの傍まで歩き、ぴょんっと軽く飛んで母さんの膝に乗った。

 母さんの顔を見る。少し、驚いているのだろか。けれどその顔は、ただの猫が突然膝に乗ってきて、驚いているのだろう。もし、本当は息子が膝の上に乗っていることを知ったら、また狂ってしまいそうだ。当の僕も、母親の膝の上に乗るなんてことはした記憶がないし、当然恥ずかしく、狂い出しそうなのだ。

 けれど、今の僕は、ただの白い猫なのだ。この行為に、問題は無いのだ。
 「どうしたの猫ちゃん?ご飯は食べた?」
 母さんが僕に声をかける。優しい声だった。僕は、母さんの声を半ば無視するようにしながら、もぞもぞと丸くなった。母さんの細い足の感触が、ズボン越しに伝わる。母さんの足が細いのは、毎日八時間も立ち仕事をして、その上家の一切の家事を切り盛りしてるから。僕は、皿洗いも洗濯も、風呂掃除もしたことがない。そんな些細な手伝い、親孝行すら、してあげられなかった。ごめんね母さん。
 僕は、そんな溢れてくる懺悔の言葉を飲み込み、ただ、丸くなった。後悔で歪んだ泣き顔など、浮かべない。寧ろ、気持ちよさそうな、とろんとした至福の顔を作ろうと努力した。だって、人間にとって猫は、癒やしだから。人間として、猫に癒やされてきた僕は、人間が猫に、癒やしを求めていることを知っている。そして、癒やしの他には、何も求めていないことも。だから僕は、母さんを癒やす。それならきっと出来る。だって僕は、ただの白い猫だから。
  「どうしたのかしら。随分人懐っこい猫なのね。」
 母さんの猫撫で声が、殺風景なリビングに響いた。
 猫の身になって思う。人間は感情豊かだ。ほんの些細なことでも喜び、悲しむことが出来る。そして、表に出した感情を伝えることにも長けている。言葉や表情は、相手に自分の感情を伝える言い手段だが、相手も、自分の考えと同じ意味で受け取らなければ伝わることはない。ほぼ全ての人が表情と無数の言葉の意味を理解し、それに答えを返すことが出来るというのは凄いことなのだ。けれど、猫になった身では、言葉を受け取る事は出来ても返すことは出来ない。口が上手く動かず、どう話しても「にゃあ」としか言えないのだ。僕はもどかしさに苛立ちながら、母さんの声に、ぐるぐると喉を鳴らして答えていた。