短編№2 ロッカー番号二十番の神様①
砂煙が舞うトラックの上を、千秋は全速力で走っていた。肺と心臓から聞こえる悲痛な叫びを無視して、スピードを落とさず、白いラインが描くカーブを曲がっていく。
「四分過ぎたぞー!」
ゴール横に仁王立ちする体育教師の大山田から、野太い声で檄が飛ぶ。
・・・わかってるっつーの・・・!うるさい黙れ禿げ山田・・・!
<生徒に聞いた嫌いな教師ナンバーワン>に三年連続輝いた大山田に、千秋は心の中で悪態をつく。今はそんな悪態さえも、乳酸が溜まりきった足を動かす動力となるのだ。
カーブを曲がりきり、最後の直線に入る。タイムを表示している電光板は見ず・・・けれど意識の大半を電光板に向けながら・・・、ゴールラインを通過した。
「四分五十秒!」
大山田がタイムを告げると、グラウンドのあちこちで準備体操をしている男子から、「すげー・・・・」「はやっ・・・」などと言った感嘆の声が聞こえた。
・・・この程度で、驚いてんじゃないわよ。
千秋は男子からの視線を感じながらもそれを無視し、グラウンドの隅にある水道へと歩き出した。
文化部も多い一組の中で、数少ない陸上部員である千秋が出したタイムは、同じクラスの男子と比べても見劣りしない。それどころか千秋よりも遅い男子の方が多いのだ。男子から注目を浴びることは気持ちが悪いものではないが、この程度で満足してはいけない。
今年こそ、全国大会に進む。千秋はそう心に決めて三年生の一学期を迎えていた。去年はあと少しの所で全国への切符を逃してしまった。それだけに、高校最後の今年に賭ける思いは強い。
だが全国に進むためには、このタイムでは物足りない。千秋が持つ千五百メートルでの自己ベストは四分四十二秒。大会で自己ベストを叩き出すのは難しい。だからこそ、地区大会までに少しでも自己ベストを更新していきたいのだ。
蛇口をひっくり返してから水を出し、口に含む。すこし鉄の味がする水道水を飲み込んで、グラウンドの中央へと引き返した。
殆どの女子はゴールし終わっていて、次に走る男子が立ち上がり、スタートライン周辺に集まりだしているところだった。
「おい、松井!」
女子が集まっている所に千秋が加わろうとした時、大山田が千秋の名字を叫んだ。
「・・・何ですか?」
仕方なく、仁王立ちをして腕組みをしている大山田の前に立つ。
「休憩時間以外に水分補給をする時は、俺に声をかけろって言ったろ。」
大山田の声は、既に怒気を含んだものになっていた。
「・・・すいません。」
「いい加減にしろよ!」
千秋の態度が気にくわないのか・・・もはやわざと気にくわない態度を千秋がとっているのだが・・・大山田が怒号をあげた。
「お前は何度言ったら俺に了解をとって水道に向かうんだ!?そんなことも出来ないのか?小学生でも出来るぞ?」
このくだりで大山田に怒られるのは一学期だけで既に三回目になる。大声で怒鳴る大山田とそれを受ける千秋に多くのクラスメイトが視線を送っている。
「ようやくごーるー・・・!」
突然、千秋を睨む大山田の目の前に、両手を広げて妙な決めポーズをしながら女子生徒が走り込んできた。
女子生徒はセミロングの綺麗な黒髪をなびかせながら、どたばたとと大山田の前を通り過ぎた。かと思うと急に足を止め、くるりとこちらに身体の向きを回転させた。
「先生!何分ですか!」
「・・・あ?」
説教の腰を折られた大山田の声は、より一層怒気を含んだ。だが女子生徒は少しも怖じ気づく様子はなく、上がった息を整えながら脳天気な声を上げた。
「私のタイムですよー。タイム言ってくださいよー。一生懸命走ってたから電光板見てないんですよぉ。」
大山田は少しの間黙って女子生徒を睨んだ後、
「八分だ。」
と吐き捨てるように言った。・・・絶対でたらめ言ってるなこの禿げ教師。
「ありがとうございますぅ。あ、そろそろ男子の番じゃないですか?ほら、もうこんな時間ですよ?」
女子生徒が指差す時計台は、四時間目の残り時間があと十分を切ったことを示していた。
「・・・分かってる。・・・おい男子!始めるぞ!」
大山田は千秋の方を怒り足りないとでも言うように一瞥しながらも、スタートラインを示す白線の前に集まる男子の方へと歩いていった。