無機物の声を書いてみた!~三作目~
見覚えのある一人の男が、私の根元に立っていた。いつも連れて歩いている女は、その日はいなかった。
男はいつもより何やらめかし込んでいて、皺一つ無い上等そうなスーツを着ている。時折、右腕に付けたシルバーの時計に目をやっては、きょろきょろと周りを見渡している。
何十年もここに突っ立っていると、流石にこの男が何を考えているのかがよく分かった。男は恐らく、今日、あの女にプロポーズする気なのだ。
いつもなら、そんな男女のむず痒くなるような幸せな瞬間に遭遇しても、私は動じない。これまで何回かその瞬間に立ち会ってきたし、私の根元でプロポーズをした男女が、数年後に私の根元で別れを切り出したこともあった。
だが今回だけは、私も少しばかり緊張を隠せない。なぜなら、私の根元に深く刻まれたひびが、今にも割れてしまいそうだからだ。
ひびが割れれば、私は必ず倒れてしまうだろう。頭にくっついた大きな時計のせいで、倒れたときの衝撃も中々のものになる。それがもし、まさにプロポーズの最中に彼らの方向に倒れることがあれば、私は悔やんでも悔やみきれないだろう。
私に唯一課せられた義務は、倒れないことだった。だがその義務が果たせそうに無い今、私はせめて、彼らの人生を左右するであろう出来事の、邪魔をしないようにしなければなるまい。
男が私の根元に来てから、随分経った。女はまだ来ない。男は時計をちらちら見ながら、まだ根気よく女を待っている。
一方で私の方は、そろそろ限界を迎えようとしていた。ミシミシと私の芯の部分が悲鳴を上げている。私の目標は、彼らの邪魔をしないことから、彼を傷つけること無く倒れる事へと変わっていた。私は彼と反対の方向へ意識を向けた。こうして僅かでも反対方向へ傾けば、彼を傷つけることなく、私は死ぬ。私を目印に彼を探す女には申し訳ないが、これが私が今できる最善の策なのだ。
不意に、私の重心がずれ始めた。待ちくたびれた彼が、私にもたれかかったのだ。よかった。これで彼を傷つけることはない。出来ることはやった。あとは、彼の幸せを願おうではないか!
そして私は、ゆっくりと倒れた。地面に身体がつき、砂煙が舞う。その時だ。倒れた方角の遠くに、見知らぬ男と談笑しながら歩く、あの女を見たのだ。
私は心底、倒れて良かったと思った。何故なら、彼はもう、女を待たなくて済んだのだから。
はい。急に書いたんですが、どうでしょうか?
答えは時計台です。どんな街にもある、待ち合わせに使う時計台。そんな時計台で人を待つ話を書いてみました。
では、また。