トマト在住の青年による執筆活動

短編の小説を書いていきます。不定期・自己ベスト更新です。たまーに自分勝手な記事も書きます。

無機物の声を書いてみた!~一作目~

 

 

    「お疲れ様でーす!お仕事引き継ぎますねー!」

 長い長い勤務時間に終わりを告げに、掃除機が俺の前に背中を向けて置かれた。

 「来るのが遅ーよ・・・。もうちょっと早く来いよ。過労で倒れちまう。」

 「そう言われましてもねー・・・。僕も忙しいんで・・・。」

 俺からの八つ当たりに、まだ若い光道は困り顔で答えた。

 「全然忙しくなんかねーだろ。お前が働いてるのなんて、一週間に一度くらいしか見ねーよ。」

 「いやいや、それは先輩からは見えない所で働いてるからですよ。僕は先輩と違って出張が多いんですから。」

 「ふん、俺なんてここ一年、一日も休みが無かったんだぞ。おまけに、朝から晩までフル稼働だ。自慢じゃないが、多分この家の誰よりも俺は働いてるはずだ。」

 光道と話しながらも俺は、身体から力が抜けていく喜びを噛みしめていた。この感触も一年ぶりだ。絶え間なく荷物を運ばなければならない俺たちにとって、仕事から離れていくこの瞬間は、張り詰めた緊張の紐が緩む心地よさに浸れる唯一の瞬間なのだ。

 やがて、ずぼっという音と共に俺の身体は職場から解放された。そして代わりに、光道がゆっくりと仕事に就く準備を始める。

 「うわ、何ですかこれ。先輩、埃が溜まってるじゃないですか!」

 休暇の心地よさと仕事の疲労感で深い眠りに落ちようとしていた俺を、光道の甲高い声が妨害してきた。

 「なんだよ・・・!埃なんていつも付いてんだろ。俺の休暇は短いんだから、黙って仕事しろ!」

 これには普段寡黙な俺も、声を荒げてしまった。何しろ、一年ごとにやって来るこの休暇は、せいぜい長くても一時間程で終わってしまうのだ。去年なんか、十分も立たずに仕事に戻る羽目になった。全く・・・、どうしてこう人間は、テレビという物から離れられないんだろうか。

 「埃なんて気にしてたら、そこで仕事は出来ねえぞ!」

 「で、でも先輩。この量は尋常じゃないですよ。下手したらこれ、荷物運ぶ時に引火するんじゃ・・・。」

 「気にしすぎだ光道。オーナーだって馬鹿じゃ無い。埃が見えたら取ってくれるだろ。」

 「でも、最近オーナーが変わったのか、掃除がかなり雑なんですよね・・。どうやら子供が掃除をしてるみたいで・・・。」

 「うるせえっ!餓鬼でも手足と頭が付いた人間だろ!さっさと仕事しやがれ!」

 「わかりましたよぉ・・・。」

 光道は渋々納得し、仕事へ向かって行った。

 ようやく、一人の時間を満喫出来る。あー、この冷たいフローリングの感触。仕事で火照った身体には染みるわー。このまま寝そうだな・・・。そうだな・・・少しの間、眠ろう・・・。

 

・・・ん?なんか背中のほうが暑いぞ・・・?

 

 気付いた時には、手遅れだった。光道が掃除機と共に、メラメラと赤い炎を上げていた。

 

 「光道、悪かった。俺がもっと注意していれば、こんなことには・・・。」

 火事が収まった後、俺たちは真っ黒なビニールケースに詰め込まれ、何処かへと運ばれているようだった。これが噂に聞く、スクラップというやつか。

 「いいんですよ、もう。先輩にも、どうしようも無かったことですし。オーナーが埃を取ってくれなかったのが悪いんです。」

 光道は全身に火傷を負い、自慢だった太い身体は、所々削れてしまっていた。

 「悪かった・・・。」

 「もう、謝らないでくださいよ・・・。」  

 光道はぼろぼろになってしまった身体を見ながら言った。

 「僕たちは、ただのコードですから。」

 

 

 はい、書いてみました一作目。答えはテレビと掃除機のコードでした。割と分かり易く書いてしまった気がする・・・。

 読んでくださった方、ありがとうございます!次回があれば、また。(笑)

無機物の声を書いてみた!~ただの説明文~

 長編小説、全然進まない・・・(泣)

何なんでしょうね、話の細かい設定とか決めて、いざ書き進めて行くときに心から湧き出る、”これじゃない感”は。

 かといって大して何も決めずに書いていくと躓くし、やっぱり小説書くのって難しいですね。楽しいけど。

 

 ってなわけで、進まない小説はパソコンの隅に置いといて(笑)立った今、何となく思い付いた企画を書いていきたいと思うわけですよ。

 

  その名も、「無機物の声を書いてみた!」

  ・・・はい、「歌ってみた」からのインスピレーション受けてます。ボカロ大好きです。にわかですけど。

 

 ざっくり説明致しますと、身近にある無機物、まあ要するに日用品が喋り出したら、一体どんなことを言うのか妄想して小説風に書いてみようって事です。こういう類の妄想大好きなんです。

 

 でもまあこれだけじゃ芸が足りない気がするので、文章の中ではテーマにした無機物の名前は明かさず、記事の最後に答えとして書こうと思います。

 なので、一体何をテーマにしているか予想しながら読んで頂けると、面白いかなー、なんて思ってます。

 

 思い付くままに、なるべく短めにまとめて書いてみようと思いますので楽しんで読んで頂けたら幸いです!

 ではまた、「書いてみた」一作目でお会いしましょう!w

短編№1 拝啓、白猫より⑥

 

 気づけば、自殺をした山にいた。

 なんでここに来たかはわからない。けれど、神様が母さんの住む家で溶けて無くなる僕を、流石に不憫に思って連れてきたのかもしれない。
 

 雪はもう殆ど溶けて、今僕が座っている所しかなかった。

 足下の雪がしゅわしゅわ溶けて、小さくなっていくのを感じる。やがて、足下の雪が無くなって、僕の足が地面についた。

 すると、僕の足も、さっきの雪と同じように、しゅわしゅわと溶けていく。

 だんだん目線が低くなっていく。

 ああ、僕は溶けるんだ。溶けて、無くなるんだ。

 この世界に、沢山未練を残してきた。けれど、僕は罪を受け止め、出来ることをしたと思う。神様が僕の行動をみてどう思っているかは知らないけれど、僕は今、生まれて初めて、自分に満足しているんだ。
 やがて、僕の目線が、地面と殆ど同じになる。芽吹いたばかりの草に視界を邪魔され、上を向いた。太陽が眩しかった。神様も、きっと僕を上の方から見ているんだろう。
 ふと、意識の底から、クロの言葉が蘇ってきた。
 「その後のことは、神様が決める。神様は、お前の魂から記憶を抜き取り、綺麗な状態にして、また生物の身体に入れる。どの生物に入れるかは分からないが、人間は魂にとって天国のようなものだから、普通は別の生物に入れるがな。」
 クロが最後に言っていたことだ。人間の頃、僕が渇望した新しい世界には行けないらしい。けれど、今は悲しんだり、失望したりしない。どんな生物でも、生きる使命を全うしてみせる。
 

 だけど、もし、もし願いが届くのならば、母さんを見守れる生き物がいいなあ。ふと、消える直前、そう思った。

 

 

 

 「こんにちは~。あら、今日はお若い方なのね。」
有田の表札が立つ家のチャイムを鳴らすと、待ちわびたかのように車椅子に座った老婦人が扉を開けた。 
 「ホオズキの木、訪問介護ヘルパーの雪村と申します。今月から、週三回、有田さんの身の回りのお世話をさせて頂きます。」
 「雪村さんね。よろしくね。さ、中に入って。」
 有田さんは、僅かに笑みを浮かべて、僕を中に招いた。一人で住んでいる筈なのに、老婦人にしては珍しく、綺麗に整頓してある。足を悪くする前は、この家で家出をしてきた子供や、自殺をしようと彷徨う学生なんかを保護しては、相談に乗ったり、面倒を見る活動をしてきたらしい。家を綺麗に保っているのは、その頃からの癖だろうか。
 不意に足下を猫が通った。綺麗な毛並みの白猫だ。
 「こら、駄目よユキちゃん。ふふ、一人では寂しくてね。この子は息子が亡くなってから飼っているの。この子も随分とお婆ちゃん猫なのよ。貴方と同じくらいの歳かしら。」 白猫の名前のせいで、自分の名前を呼ばれているようで恥ずかしかった。
 「ねえ、貴方。」
 老婦人は僕を優しい声で、一冊の本を手渡してきた。真っ白い猫が、器用に鉛筆を持っている、奇妙な絵が表紙を彩っていた。
 「ここに来た子供達に、配っていた本なんだけどね。折角作ったのに余っちゃって、置き場所に困っているのよ。貴方、一冊貰ってくれないかしら?」
 「分かりました、頂きます。有田さんが書かれたんですか?」
 「いいえ・・・。それはね・・・。昔買ってた、猫の形見よ。」
 老婦人は、言葉を選ぶように、ゆっくりとそう言った。
 
 「では早速、頼まれていたトイレ掃除から、始めさせて頂きます。」
 「ねえ、貴方。」
 また、優しい声で呼び止められた。
 「はい?」
 「・・・息子に似てるわね。そっくり。」
 「そうなんですか。はは・・・。」
 訪問介護をする度、老婦人からはよくそんな事を言われる。一種のお世辞だ。

 けれど、今回だけは、何故か少し、嬉しかった。
 

 懐かしい、匂いがするのだ。
                                                                    

      完

短編№1 拝啓、白猫より⑤

 

 僕が猫になってから、一ヶ月が経った。

 相変わらず人間の言葉を喋ることは出来ない。母さんは人間だった頃の僕の葬儀を終えたものの、僕の遺品整理や親族への対応など、忙しい日々を送っていた。スーパーでの仕事も再開していたから、なおさら忙しいようだ。
 

 僕にはまるで、忙しい日々に身を置き、大きな悲しみを頭の隅に追いやっているようにも見えた。
 

 そんな母さんを見守りながら、僕は毎日、そうして母さんと家で暮らしている。
 

 「ほら、シロ。朝ご飯だよー。」
 母さんがキャットフードの入った小皿を持ってきた。僕がこの家に居着いてから、僕のご飯はキャットフードになった。因みに、クロにあげていたものと同じものだ。
 「じゃあ、母さんはお仕事に行ってくるからね。大人しくしていてね。」
 母さんは僕の頭を撫でてから、パートに出かけていった。
 母さんの置いていったキャットフードを食べる。

 ・・・不味い。

 何というか、身体に良さそうというのはわかるんだけど、良薬口に苦しと言うことなのか、美味しくない。猫まんまが恋しい。けれど、僕の前足では台所の引き出しを開けることは出来そうも無い。
 キャットフードを食べ終わり、リビングのソファの上で丸くなった。今、部屋には暖房がついていないので、だいぶ寒い。だからこうして丸くなって寒さを凌ぐのだ。窓から見える外に、雪が降っていた。ここ何日か降りっぱなしだ。寒さの象徴のような雪も、私の命をつなぎ止めているものだと思うと、正直に止めとも祈れない。
 猫の姿になって、僕はこの世界でもう少し生きたいと思うようになった。自殺によって悲しませてしまった母さんを、見守っていかなければならないという思いもある。けれど一番大きな思いは、人間の姿に戻って、もう一度生きてみたいという思いだ。
 外の方から、楽しそうな、甲高い子供達の声が聞こえる。雪合戦でもしているのだろうか。そういえば今日は、日曜日だった。わいわいと降り積もった雪ではしゃぐ、屈託のない笑顔を浮かべた子供達を思い浮かべた。ふと無意識に、僕は自分の前足を見つめる。試さなくても分かる。僕には雪玉は作れない。
 ちらりと時計を見る。針は七時半を指している。まだ母さんが出かけてから十分程しか経っていない。けれど、夕飯まで僕はすることが一つもなかった。ただ、寒さに耐えながら寝て、時間が過ぎるのを待つだけだ。猫の日常がこんなにも退屈だとは思わなかった。それと同時に、日々忙しく動き回る人間が羨ましく感じたのだ。
  母さんを見ていてもよく思う。朝から掃除や洗濯をし、パートに出かけ、夕方帰ってくると洗濯物を入れ、食事を作る。僕に餌をやり、全てが一段落したら、三階に上がり、僕の部屋を片づける。あの日、これでもかと荒らした部屋はだいぶ綺麗になってはいたが、長い時間作業をしていると込み上げてくる思いがあるのか、三十分もすれば母さんは部屋から出てくる。二階のリビングに戻った後は、本を読んだりしている。
 その間、僕は何をしているか。カルガモの雛のように母さんの後ろをくっついて歩き、母さんの行動をただ、眺めているだけ。僕は何もしない。というより、何も出来ないのだ。
 人間だった頃、僕はぐうたら一日中寝て過ごす猫が羨ましかった。けれど、猫は寝ることしか出来ないのだ。この不自由な身体では、勉強をしたり、スポーツをしたり、料理をすることは出来ない。ただ生きるために、食べて、寝てることしか出来ないのだ。

 人間のしていることは、本来生きるためには必要のない事だ。けれど、退屈という苦しみから逃れるためには、必要な事なのだ。勉強をし、働き、稼いで、遊ぶ。その全ては、退屈という苦しみから逃れるための手段なのだ。けれど、僕は人間だった頃、その手段を苦しみと勘違いして、引きこもり、そして自殺を図った。猫になった今ならわかる。

 僕は社会のレールに乗るべきだった。血反吐を吐きながら働いて、僅かなお金でも稼いで、そのお金で、母さんと短い時間でもいい、父さんがいた頃のような、ささやかな、けれど暖かい、晩餐をしたかった。

 父さんは、その一時間にも満たない幸せのために、毎日働いていたんだ。でも、父さんにはそれで充分だった。それが幸せな事だと、自分の持つ光だと、父さんは知っていた。そして、僕にもそれを教えようとしてくれていた。どんな形でもいい、水泳選手でも、ピアニストでも、会社員でもいい。そこで得たもの、名声、お金、笑い話、そんな事を誰かと分かち合う。それだけで、退屈や辛かったことを吹き飛ばすくらい、暖かい気持ちになれるってことを。
 ふと思い立って、僕は二階に上った。ジャンプをしてどうにかドアノブを開け、部屋の中に入る。ここは、僕が人間だった頃使っていた部屋だ。母さんのお陰か、綺麗に整頓してあった。

 捜し物はすぐに見つかった。ベッドの下に潜り込むと、それはまだ置いてあった。遺書を書くために買った便箋の余りと、その時使った鉛筆だ。僕はそれをベッドの下から咥えて出し、床の上に並べた。

 遺書を書こう。そう思った。

 僕が死ぬまで、時間はまだあるんだ。練習すれば、きっと書けるようになる。猫の声では伝えられない、僕の言葉を、懺悔を、謝罪を、母さんに書こう。けれど、それじゃあ文章として暗すぎる。だから僕は、死ぬ間際、悲しみを背負いながら書く後ろ向きな遺書じゃなく、この世界、人間の素晴らしさ、生きることの大切さを、誰かに伝える前向きな遺書を書こう。そんな遺書を書けるのは、多分この世で僕だけだから。

 さて、とりあえず、ここまで拙い文章に付き合ってくれてありがとう。まだまだこの姿になってから体験した事を書きたいのだけれど、もう季節は冬を越え、春に入ろうとしている。雪が溶けるのも時間の問題だ。だから、最後にちゃんと、僕の気持ちをまとめておこうと思う。
 積もる雪~、増す冷たさを~、溶かすのは~、心の春と~、猫は思いて~。
 ・・・まとめすぎかな。正直、時間が無かった。でも、僕の言いたいことは伝わったと信じている。もしこの文章を読んだのなら、少しの時間でもいい。何処かで忘れていた人間の良さを思い出して、自分の生きる理由を見つけて欲しい。じゃあ、最後にします。
 みんな、生きてくれ。・・・さよなら。

短編№1 拝啓、白猫より④

 

 白猫になった僕は、その足で人間だった頃住んでいた家の前まで帰っていた。

 まさか、猫の足ではここまで来るのに半日かかるとは思わなかった。ずっと休み無く歩き続けて、身体はくたくただ。コーラを飲んで、ベッドで横になりたい。けれど、いくら玄関の前で待っても扉が開く気配はない。おまけに、僕は「開けて!」と言っているつもりなのに、「にゃあ!」と甲高い声しか出ないのでイライラする。
  僕は、ドアが開かない理由を薄々気づいていた。商店街を通って来たとき、向こうからパトカーが走ってくるのが見えた。急いで道の端に逃げると、目の前をパトカーが通り過ぎた。その時だった。

 パトカーから微かに、覚えのある匂いがしたのだ。

 どうやら猫は人間より鼻が効くらしい。行き交う人の匂い、自動車から出るガソリンの匂い、お肉屋のコロッケの匂い。その全てを、人間の鼻より逃がさず、敏感に捉える。

 そしてあのパトカーからは、母さんがいつも付けていた香水の匂いがしたのだ。母さんは外に出かける時、いつも同じ香水をつけていた。だからその鼻につく匂いは覚えていたのだ。
 パトカーは真っ直ぐに僕の歩いてきた道、つまりあの森の方へ走っていった。昨日、母さんは森の方に向かって走る僕の姿を見ていた。そして僕はその夜、家に帰ることは無かった。警察に連絡を入れても不思議じゃない。そして、多分警察は僕の死体を見つけて、母さんに知らせる。森の奥で死んでいたのだから、ある程度、捜査も行われるはずだ。結論は、ただの心臓発作による病死になるはずだが。
 今頃、母さんは警察の捜査に協力したりして、当分家に帰ってはこないだろう。新米の猫である僕は、ここで母さんを待つしか食事のツテが無かった。ぐるぐると家の周りを周回し、そのうちそれも飽きて、じっと扉の前で丸くなった。
 こんな時、お金があったらとこの時ほど思ったことはなかった。僅かでもお金があれば、その場しのぎではあるけれど空腹を紛らす食事を取ることが出来る。そればかりか、ある程度まとまった額があれば、ホテルに逃げ込んでたんまり食事を取り、フカフカのベッドで寝ることも出来る。そんな生活が出来る環境につい昨日まで身を置いていたのに、今は凍てつく冬の風に吹かれながら、固いコンクリートの上で丸くなり、空腹に悶え苦しんでいる。天と地の差だ。まだ勝手が分からない不自由な身体に、この貧しさは堪えた。

 くそ。こうなったら手当たり次第に灯りのともっている家のまで鳴き喚き、ご飯と水をねだってみるか。そう決意した時。

 不意に、あの香水の匂いがした。
 家のある路地の入り口に、母さんはふらりと現れた。いつも来ている茶色のロングコート姿の母さんは、ゆっくりとこちらに向かってくる。その姿は、きっと家族を亡くした誰もが陥る、僕が心の何処かで予期していたままだった。いつも浮かべていた笑みはなく、ぼうっと遠くの地面を眺めているように見える。足取りもフラフラと、どことなく危なっかしい。その姿は、とても直視できるものでは無かった。僕はたまらず目を玄関の方に逸らした。母さんは、きっと僕が死んだ事を知ったんだ。もしかしたら、雪山に横たわる僕の死体を、直に見たのかもしれない。母さんは、きっと悲しんでいる。そして、その原因はきっと僕だ。僕が母さんを悲しませた。こうなることは、分かっていた筈なのに。 
  直ぐ後ろに人の気配を感じる。母さんが家の前まで来たようだ。僕は振り返らずに、母さんの出方を窺った。母さんは、ゆっくりと僕に近づいてくる。母さんの靴が、僕の身体を掠めた。僕は徐々に多くなる心拍数を気にしながら、母さんの挙動一つ一つに意識を傾け、逃さないよう集中した。
  母さんはゆっくりと、けれど足を止めることはなく僕をまたぐと、玄関を開けて中に入り、扉を閉めた。まるで僕の事なんか、気にも止めていなかった。
 僕はただ呆然と、閉まった玄関の扉を眺めた。

 母さんは、僕を完全に無視した。僕の事なんか、どうでもいいのだ。考えなくても、そんなことは分かっていた。今、僕は悲しみに包まれた母さんを支えるべき家族じゃない。

 ただの真っ白い猫なのだから。

 それでも、と僕は気力を振り絞り、玄関のレバーを睨んだ。それでも、僕は家に入らないといけない。食料と水の確保、そして母さんを見守り、支えるため。自分が母さんを悲しませたという強い罪悪感が、自殺未遂を繰り返した頃には考えもしなかった程に、母さんに奉仕をするという罪滅ぼしへと身体を動かしていた。
 への字のようなレバーに向かって思いっ切りジャンプをし、前足をかけようと試みる。母さんが家に入った後、ガチャンという仕掛けを動かすような音はしていない。つまり、この玄関に鍵はかかっていないはずなのだ。前足でレバーを下げれば、自然とドアは開くはず。二回三回とジャンプをして挑戦したが、上手く足がかからない。前足に力を込めることが出来ないのだ。僕は自分の真っ白な前足を憎んだ。確かに、寝ているクロの前足を弄ったとき、関節はふにゃふにゃと力なく曲がったことを覚えているが、まさかこの姿になって関節が柔らかいか確認をしたいわけじゃないんだ。  

 畜生。
 

 すると一瞬、身体中に力がこもるのを感じた。そうか!都会に住む猫が力を込める時、それは怒った時だ。怒りのままにレバーに飛びかかれば、きっと上手くいく。
 怒りの感情をどう引き出すか数秒の間思考を巡らし、僕は、僕を責めることにした。
 
 何が新しい世界だ。この世界で上手くやれないからって逃げやがって。現実逃避野郎。お前の悩みなんか、自殺する価値もねえんだよ。世の中にはな。お前なんかよりもっと大きな悩み抱えて、それでも生きようって人も沢山いるんだよ。途方も無い借金抱えたって、大切な人に裏切られたって、今日食う飯すら無くたって、自分に残されたもんから光を見つけ、それをたぐり寄せて、懸命に生きようってもがいてんだよ!
 お前、何もしてねえじゃん。借金無し。裏切ったわけでも裏切られたわけでもない。飯は三食、作ってくれる家族がいる。恵まれてんだよ。お前は。恵まれてんのに、これからの人生を悲観して、ろくに頑張りもせず逃げ回って、しまいにゃ都合良く考えて自殺!?
 ナメすぎだろお前。そりゃ神様怒るって。お前なんか、何処に行っても逃げるだけ。ああ、この世界もつまんないから逃げよーって。すぐ自殺。次の世界でも同じ。すぐ自殺。現に今お前、なりたかった猫になったのに、すっかり嫌気がさしてんだろ?ちゃんと自分と向き合えよ!自分の持ってる光に気づけない奴になんか、明るい未来なんて来るわけねえだろ!!!
 もう一人の、ずっと心の何処かにいた自分が、抗議をした。僕は、まるで決まり切ったかのように、一言だけ返答する。
 
 そんなこと、分かってんだよ!!!
 
  やり場のない怒りの矛先をレバーに向け、僕は跳躍の姿勢を作る。全身の毛はいつの間にか逆立ち、前足からは爪が飛び出た。身体をぎゅっと縮め、後ろ足に力を込めて、地面を蹴った。レバーに向かって体当たりをする。勢い余った僕は、レバーより上の鍵穴に頭をぶつけた。ごんっという音と共に痛みが走る。視点が揺れて定まらない。けれど、僕の前足はしっかりとレバーを捉えていた。身体が落ちる勢いと共に、飛び出た爪がレバーに引っかかり、力のこもった前足は、レバーを思いっきり下げた。
 どんっと音を立てて、僕は地面に落下する。それとほぼ同時に、玄関は僅かに開いてくれた。
 僕は起き上がり、見慣れた、飾り気のない玄関にすっと入った。
 ガチャーン!!
 突然上の方から大きな衝突音がした。咄嗟に、全身に得体の知れない緊張が走る。・・・母さん?一体何をしているんだ?
 跳ねるように階段を駆け上がる。勢いよく二階に上がり、リビングを一瞥したが、そこに母さんの気配はない。三階にいるのか。再び階段を上ろうとしたその時、階段の上からどたどたと本が数冊落ちてきた。・・・これは、僕が好きで、集めていた漫画だ。母さんは、一体何をしているんだ?
 階段を上り、開きっぱなしの僕の部屋の中は、惨劇だった。
 「うあああああああ!!!!!」
 言葉として聞き取れない奇声を張り上げ、母さんが部屋を荒らしていた。

 本棚に並べた漫画や小説を床に投げ捨て、赤ん坊のように箪笥の服をまき散らしている。壁に向かって投げられた携帯ゲーム機が、ドンッ!と音を立てて落下した。怒っている母さんすら見たことが無い僕は、別人のように狂乱している母さんをみて狼狽えるしかなかった。
 「にゃっ、にゃあ!」
 声をかけてはみるのだが、人間の声ならまだしも、理解不能な猫の声では母さんに届くわけもなかった。母さんは僕の部屋にある、ありとあらゆる物を投げ捨て、これでもかと荒らした。死んだ息子の痕跡を必死に消そうとしていたのかも知れないし、自殺の理由の手がかりを探そうと躍起になっているのかもしれなかった。

 ただ唯一分かるのは、母さんを狂わせた原因は、僕であるということだけだ。
 「うー・・・」
 僕は喉を鳴らしながら、思わず部屋を出てしまった。

 暴れ狂う母さんの姿を、止めることすら僕は出来ないのだ。全て僕のせいなのに。 

 僕が死んだせいなのに。

 神様が僕に科せた罰が、ボディブローのようにじわじわと効いてきた。死んでしまえば、普通なら残された家族の姿を見ることは恐らくない。だから僕も、自殺をする時に脳裏を過ぎる母さんの泣き顔を、自分とは関係ない事と無視していた。それどころか、母さんは僕が死んでも、何も変わらずいてくれると幻想すら抱いていたのだ。それは、母さんを悲しませたくないという思いから出た、身勝手な期待であり、逃避だった。
 悲しませたくないなら、死ななきゃ良かったのに。
 心に巣くうもう一人の僕が、僕を責め立てる。だから僕は、やっぱりお決まりの台詞を返す。
 そんなこと、分かってんだよ。
 僕だって、分かってたんだ。母さんの微笑む顔を歪ませないためには、生きること。方法はそれしか無かったし、それだけで良かった。高校生だった僕には、それくらいしか母さんは求めてなかった。勉強を強要されることも、進路を強制されることも、思想を植え付けられることも無かった。ただ、毎日三回、絶やすこと無くご飯を作ってくれた。それは、僕に生きて欲しいという、ただ一つの願いだったように思う。
 いつの間にか、僕の部屋から騒音が消えていた。恐る恐る、中を覗く。
 母さんは、物で散らかった床に力なく座り、ベッドに顔を突っ伏していた。静かに鼻をすすり、嗚咽を漏らしている。
 僕は母さんの傍に寄った。ただの白い猫と化した僕には、何も出来ない。けれど、この場から音も無く立ち去ることは、どうしても出来なかった。
 母さんが、僕に気づいたようだ。ぐすぐすと噎び泣きながらぐるりと僕に泣き顔を向け、僕の頭を撫でた。まるで、自分の荒れた心を、落ち着けるように。
 「ごめんね、うるさかったね。どこから来たの?」
 今僕は、どんな顔をしているのだろうか。目つきの悪い、無表情の野良猫の顔つきをしているのだろうか。綺麗な丸い黒目の、可愛い家猫の顔つきだろうか。少なくとも僕の心は、幾つもの感情でかき混ぜられてぐちゃぐちゃになった、見るに堪えない泣きっ面だ。
 「この部屋にいた子ね、死んじゃったの。今日森の奥でね、雪に埋もれて死んでたの。私の息子。たった一人の家族だったの。」
 ぽつり、ぽつりと、母さんは言葉を僕に落とす。僕はそれを、ただ受け止めていた。
 「物静かでね、文句一つ言わない子だったの。赤ちゃんの頃ね、中々喋り出さないから、お父さんと二人で心配してたんだよ。この子、口がきけないんじゃないかって。」
 母さんは僕の思い出話をして、今日初めて、少しだけ微笑んだ。けれど、涙でぼろぼろに崩れた化粧と、一向に戻らない鼻声は、帰って背負い込んだ悲しみを強調して見えた。
 「心臓発作だって。死因。心臓発作。警察の人が言うんだから、間違いないのよね。なのに祐介、遺書なんか書いてたんだよ?あの子にしては綺麗な字で、たった一言だけど、ありがとうって。自分が死ぬ事、あの子分わかってたのかしら。」
 母さんの足下には、僕が書いた遺書が落ちていた。びりびりに破かれた無残な姿で。
 「にゃあ。にゃあ!」
 わかってたよ。わかってた。だって、僕は自殺をしにあの森に入ったんだ。ごめん。母さんごめん。
 僕は思わず口を開いた。甲高い、空気の読めない鳴き声が部屋に響く。ああ、もどかしい。猫の姿じゃ、一言も伝えることが出来ないじゃないか!
 「ねえ、猫ちゃん?普通、突発性の心臓発作で、遺書なんて残らないよね?あの子、自殺したのよ。きっとそうよ。だってあの日の夕方、商店街で私を振り払って逃げたのよ?そんなこと今まで無かった。顔は見えなかったけど、あの後ろ姿は祐介よ。あの子、ちょっと猫背気味だからすぐ分かる。」
 母さんは、だんだんと声が大きくなり、捲し立てるように僕に話をぶつけた。
 「警察に何度も言ったわ、自殺じゃないのって。でも違うって。心臓発作だって。私は信じない。あの子は自殺したのよ。絶対そうよ!」
 また、母さんの落ち着きが無くなってくた。僕の頭を撫でる力が強くなる。かと思うと、両手で僕の頬を押さえ、思いっきり顔を近づけた。母さんの額と、僕の頭がくっつく。
 「私は、あの子を助けられなかった。死にたいくらい悩んで、苦しんでいた祐介を、助けてあげられなかった!祐介には、自由に生きて欲しかったの。父さんが、祐介に色々教え込んで、それが逆に祐介の未来を締め付けてるって、思ったから!だから、祐介に任せたの!祐介の好きなように、生きて欲しかった。私はただ、祐介が元気に育ってくれれば、それで良かった!!!なのに、それなのに!助けられなかったの!!!」
 吐き捨てるように、母さんは叫んだ。呼吸が熱を帯びていた。僕の顔は、母さんの涙で濡れていた。僕はただ、母さんの懺悔を聞いていることしか出来なかった。
 「なんで、なんで死んじゃったの?祐介。何でも良いから、言って欲しかった。力になりたかった。死んで欲しくなかった・・・!」
 天国の僕に向けて言ったであろう母さんの言葉は、目の前にいる僕に突き刺さった。鋭利なナイフで胸を突き刺した時より、よっぽど痛い。
 「にゃあ・・・!にゃあ・・・!」
 ごめん。母さん。何にも言わずに死んでごめん。謝るから、泣かないで。頼むから、泣かないでくれよ母さん・・・!僕のせいだよね、僕のせいで泣いてるんだよね。だけど、僕はこれ以上、母さんが泣いているのを見ていられない・・・!
 「にゃあ!にゃあ!にゃあ!」
 呻くように、身体から絞り出すように、絶えず僕は鳴いた。母さん、自分を責めないで。母さんは悪くないんだ。僕が悪いんだ。だからお願い、泣かないで!
 「・・・変な猫ね。心配してくれてるのかしら。」
 吐き捨てるような勢いのあった母さんの鼻声に、いつもの柔らかさが少しだけ戻った。よかった!!僕は心の底から安堵した。何とか、母さんの涙を止めることが出来た。そんな安堵感からか、急にお腹がぐうーと音を立てた。なんて緊張感の無い音だ。
 「ふふ、ご飯にしましょうか。お腹空いたでしょ。」
 母さんは顔を拭いながら立ち上がった。その姿は、災害から生き残ったか細い木のように、懸命に命をたぐり寄せているように、僕には見えた。

「猫ちゃんお食べ。丁度キャットフードは切らしてたから、猫まんまで我慢してね。」
 母さんが小皿にご飯と鰹節を入れて持ってきた。僕はそれを貪るように食べた。美味しい。ここまで美味しい食事を取ったのは初めてかもしれない。僕は顔をあげて、母さんを探した。美味しかったと、伝えたかった。
 母さんは、リビングにいた。ソファに座って、ぼうっと宙を見ている。
 母さんに向け、美味しかったと言おうと口を開けようとして、やっぱり止めた。
 こんな時、今の僕には何が出来るのだろうか。今の僕が何を言っても、母さんには正確に伝えることは出来ない。口頭も、勿論筆談も出来ない。なら、母さんを思う猫なら、こんな時は何が出来る?
 考えて、考えた末。
 僕はゆっくりと母さんの傍まで歩き、ぴょんっと軽く飛んで母さんの膝に乗った。

 母さんの顔を見る。少し、驚いているのだろか。けれどその顔は、ただの猫が突然膝に乗ってきて、驚いているのだろう。もし、本当は息子が膝の上に乗っていることを知ったら、また狂ってしまいそうだ。当の僕も、母親の膝の上に乗るなんてことはした記憶がないし、当然恥ずかしく、狂い出しそうなのだ。

 けれど、今の僕は、ただの白い猫なのだ。この行為に、問題は無いのだ。
 「どうしたの猫ちゃん?ご飯は食べた?」
 母さんが僕に声をかける。優しい声だった。僕は、母さんの声を半ば無視するようにしながら、もぞもぞと丸くなった。母さんの細い足の感触が、ズボン越しに伝わる。母さんの足が細いのは、毎日八時間も立ち仕事をして、その上家の一切の家事を切り盛りしてるから。僕は、皿洗いも洗濯も、風呂掃除もしたことがない。そんな些細な手伝い、親孝行すら、してあげられなかった。ごめんね母さん。
 僕は、そんな溢れてくる懺悔の言葉を飲み込み、ただ、丸くなった。後悔で歪んだ泣き顔など、浮かべない。寧ろ、気持ちよさそうな、とろんとした至福の顔を作ろうと努力した。だって、人間にとって猫は、癒やしだから。人間として、猫に癒やされてきた僕は、人間が猫に、癒やしを求めていることを知っている。そして、癒やしの他には、何も求めていないことも。だから僕は、母さんを癒やす。それならきっと出来る。だって僕は、ただの白い猫だから。
  「どうしたのかしら。随分人懐っこい猫なのね。」
 母さんの猫撫で声が、殺風景なリビングに響いた。
 猫の身になって思う。人間は感情豊かだ。ほんの些細なことでも喜び、悲しむことが出来る。そして、表に出した感情を伝えることにも長けている。言葉や表情は、相手に自分の感情を伝える言い手段だが、相手も、自分の考えと同じ意味で受け取らなければ伝わることはない。ほぼ全ての人が表情と無数の言葉の意味を理解し、それに答えを返すことが出来るというのは凄いことなのだ。けれど、猫になった身では、言葉を受け取る事は出来ても返すことは出来ない。口が上手く動かず、どう話しても「にゃあ」としか言えないのだ。僕はもどかしさに苛立ちながら、母さんの声に、ぐるぐると喉を鳴らして答えていた。

 

短編№1 拝啓、白猫より③

 

 クロが死んでから一ヶ月が過ぎた。あれから何度か、自殺未遂をした。飛び降りをするためにマンションの屋上に立ったりもしたが、身体が躊躇してフラフラとしている間に人に見つかり、その時は無言で逃げ帰った。
 季節は秋から、冬を迎えようとしている。風は日に日に冷たくなってきて、灰色の厚い雲が空にかかる度、天気予報士が初雪を唱えている。
 雪が降る前に死にたい。寒さは僕の決意を削ぎそうな気がするからだ。クロを先に死なせてしまった以上、後戻りはしたくない。僕は変化を求めているんだ。惰性でこの世界の奴隷にはならない。
 スマートフォンで近所の地図を見る。実は、前から目を付けていた建物がある。それは街の外れにある廃ビルで、周りに人気のある建物はないし、ビルの裏は森で、自殺をするにはもってこいのように思えた。ここで決着をつけよう。そして、新しい世界に旅立つんだ。
 青いコートを来て外に出た。それは分厚い雲が覆っている。ぴゅうっと音を立てるような風が首元を掠める。マフラーをしてくれば良かった。
 廃ビルへと向かい、商店街を歩いた。丁度夕方の買い物時なのか、夕飯の食材を買うおばさんで賑わっている。
 そういえば、今日はちゃんとしたご飯を食べていなかった。昼、起き抜けに命を繋ぐだけの目的でカロリーメイトを口にしただけだ。お肉屋のショウケースに鎮座するコロッケが視界に入る。急にお腹が減ってきた。・・・仕方ない。
 「すいません。コロッケを一つ下さい。」
 「はーい。八十円でーす。」
 目の前に立つおばさんは、慣れた様子でコロッケを小さな紙袋に入れた。
 「このままでいいかい?」
 「はい。」
 コロッケを受け取る。ほかほかとした暖かさが冷たく悴んだ手を溶かしていく。
 「ねえお兄さん。もしかして有田さん家の子かい?」
 不意に、おばさんはそんなことを言ってきた。
 「・・・はい。そうですが・・・?」
 「まあ、やっぱり!大きくなったわねー。小さい頃、お母さんと一緒に来てくれてたわよね-?」
 おばさんは懐かしがったが、僕はあまり覚えていなかった。けれど確かに、母さんと一緒にこの商店街には来ていた気がする。
 「お母さんに宜しくね!」
 店を後にするとき、おばさんはそう言って手を振っていた。こんなたわいもない出来事が、僕が自殺した後で後日談として語られるのだろうか。
 「確かに、ちょっと考え込んでる雰囲気だったわねー。」
 などと脚色して、昼間の井戸端会議で取り上げられるのかもしれない。
 コロッケを口に入れる。大したことのない平凡なコロッケの味に、僕も結局懐かしさを覚えてしまった。別に特別美味しいわけではないのだ。それなのに、もう一つ買っておけば良かったと後悔してしまうほど、僕はこの味に飢えた。身体の底の方から、小さい頃から渇望したものが込み上げてくるような気がした。

 ・・・思い出した。仕事で忙しく、中々帰って来ない父さんが夕飯を家で食べる日、母さんと僕はいつも、あのお肉屋さんでコロッケを買っていた。料理上手で、いつもは総菜を買うことがない母さんが、その日だけは人数分のコロッケを買っていた。普段より豪勢な夕飯に比べて見劣りするコロッケを父さんは
 「またこのコロッケか。」
 と言いつつ僕より一つ多く平らげていた。そして、滅多に笑わない父さんが、夕飯の時だけ微かに微笑むのを、僕は今ありありと思い出したのだ。
 月に一回あるかどうかの三人で囲む夕飯を、僕は楽しみにしていた。その時だけは、冷たくて重い家の空気が、ふわっと軽くなったからだ。食卓を三人で囲む短い時間、僕は幸せだった。暖かい家庭がそこには確かにあったのだ。けれど、父さんが死んで、それはもう無くなってしまった。僕は父さんが嫌いだったけれど、あの食卓には父さんが必要だった。父さんが微笑んでくれるから、母さん、そして僕が笑えたのだ。
 

 気づけばコロッケを持っていた手が濡れている。まさか、今更僕が父さんのことで泣くとは。そんな思いとは関係なく、涙が一粒、また一粒と落ちてくる。

 落ち着け。

 こんな道の真ん中で泣いていたら目立ってしまう。もし不審がられて警官に止められでもしたら面倒だ。僕は歩く速度を速めた。その時。
 

 「・・・祐介?」

  後ろの方で、母さんの声がした。疑問符に満ちた声のせいなのか、金縛りにあったかのように身体が止まった。今、振り返れば、目的の廃ビルに行くのが面倒になる。廃ビルに向かうなら、今すぐにでも駆けだして母さんを振り切らなければならない。いわば僕にとって、この状況は三途の川だ。走って振り切れば、僕はこの世界を旅立てる。振り返れば、旅立つことは出来ない。母さん、僕は・・・
 「どうしたの祐介?こんな所で・・・。」
 母さんの声が近くなり、背中のすぐ後ろで聞こえた時、僕は全速力で駆け出した。後ろは少しも振り返らなかった。母さん。僕はもう耐えられないんだ。暖かさのない、この世界は。
 商店街を抜け、登り坂の一本道の先に目指す廃ビルが見えた。さっきまであれほどいた人も見なくなり、まばらにある建物も、明かりが見えるのは少ない。
 廃ビルの下に付く頃には、すっかり日が落ちて暗くなっていた。この辺りは街頭も少なく、目の前に立つビルもよく見えない。
 「ふん。自殺なんて。余程の贅沢者だな。」
 低くて太いその声は、しんとした空気を切り裂くように、だが静かに頭の中に入ってきた。
 「・・・誰だ・・・!」
 声の主を、身体を捻って探した。すると、ビルの後ろにある森の入り口に、ぎらりと光る二つの丸い目が、僕を睨んでいた。
 「こっちに来い。・・・まあ、別に来なくても、結局お前は森に入ることになるのだが、素直に来てくれると手間が省ける。」
 「お前は・・・何なんだ!なんで、僕が自殺するって知っているんだ!!」
 「大人しくついてきてくれれば、説明してやる。安心しろ・・・ちゃんと、殺してやるから。」
 そう言うと、目は森の方に向いたのか見えなくなった。そして、暗闇の中で、見覚えのあるシルエットが動いたような気がした。
 僕は、一体何を見ているんだ?生物の本能に逆らい続けて、ついに気が狂ったのか?落ち着け。そうだ。あいつは僕が殺したんだ。この手で。

 ・・・クロが、生きてるわけはないのだ。

 考えるな・・・!幻想を見るにはまだ早い。ここはまだ、よく知っている現実的で、非情な世界だ。
 けれど、思考を放棄しようとするほど、下り坂をゆっくりと、滑るように足が森へと動いた。足は止まらないどころか、少しずつ速く踏み出していく。固いコンクリートの上を歩いている筈なのに、その無機質な感触が足の裏に伝わってこない。まるで、操り人形のように上から糸で吊られ、宙を歩かされているようだ。さっき、あいつが言った言葉が頭の中で駆け巡った。僕は、何かに導かれ、森に入らされる。それは揺るぎない事実のようだ。・・・もう、いいや。どうせ後で死ぬことにしたんだ。最後の日ぐらい、幻想に身を埋めても良いだろう。
 森に足を踏み入れた時、上から冷たいものが落ちてきた。はらはらと、少しずつ、けれど途切れることはない。初雪だった。ますます幻想的になってきた。僕は思わず引きつった笑みを浮かべながら、森へと入った。

 

 雪が舞い落ちる森を歩く。

 離れて前を歩くあいつは、時々こっちを向いて、鋭い眼光で僕を睨む。そして、また前を向いて歩き出す。僕はただ、あいつの後を追った。
 ずいぶんと奥まで進んだ。すると、所狭しと立っていた木が無くなり、開けた場所に出た。広さは、テニスコート半面分といったところだろうか。そこには、短い薄茶色の枯れ草が生えてはいるものの、木は一本もなく、公園の広場のようだった。
 あいつは広場の真ん中で止まり、こっちを向いた。どうやらここに来いということらしい。その時、雲の切れ間から月が顔を出し、あいつの姿を照らした。そこには確かに、クロがいた。クロは特徴のない黒猫だったから、僕以外の人間では見分けが付かなかったと思う。でも、僕には分かるのだ。佇まい、醸し出す雰囲気、あいつの全てが、クロだと主張している。
 あいつの目の前に立った。あいつは、雲上人のような風格を漂わせたまま座り、僕をじっと見つめている。
 「クロ・・・だよね?」
 「お前の家では、そう呼ばれていたな。」                     
 クロはそう答えた。
 「・・・クロってそんな低い声してなかったよ?」
 僕は精一杯おどけて見せた。
 「疑うなら、今ここで高い声を出してやってもいいぞ。」
 「いや、大丈夫。お前はクロだ。なんとなくだけど、僕にはわかる。けど・・・」
 「なんで死んでいないのかって顔してるな。」
 クロは淡々と話を続ける。
 「簡単に説明すると、儂は確かにあの日お前に殺された。だが、儂は上の方々の力で、何度でも生き返ることが出来る。だからこうして、儂はまたお前の前に現れたというわけだ。」
 「・・・じゃあ、家の庭から生き返って出てきたってこと?」
 僕はクロが死んだ後、死体を家の庭に埋めていたのだ。
 「いや、肉体は上の方々が新たに作り、持ってきたものだ。魂は転用しているがな。」
 「え、じゃあ前のクロとは、肉体が違うって事?」
 「正確にはそうだが、上の方々は、どうやらお前のいうクロという猫を忠実に再現しているらしい。毛の一本すら同じだし、雰囲気とか、そういった感覚的な所もな。いわばクローンといったところか。」
 「ねえ、さっきから言ってる上の方々って何なんだ?」
 「神様だ。」
 クロはあっさりと答えた。
 「・・・神様って本当にいるんだ。」
 「ああ、いる。」
 クロは、あまりにも淡々と話をする。僕は聞きたいことが沢山あるのに、クロがあまり質問を受け付けていないようで、言葉を上手くひねり出すことが出来なかった。けれど、どうしても聞いておきたいことは、すっと口から出すことが出来た。
 「クロ、お前は何者なんだ?」
 「儂か。儂は神様の使いだ。」
 やはりクロは淡々と答えた。
 「何を頼まれているの?」
 「お前の死を見届けろと、言われている。」
 意味をよく理解出来なかった。ご大層に僕を森へと導き、幻想的な演出をしておいて、僕の死を見届けるだけ?
 「これからお前は、神様によって殺される。死因は心臓発作だ。儂は、お前の死をここで見届け、お前の魂を食らう。それが儂の役目だ。」
 ますます意味がわからない。魂を食らう?
 「それって意味あるの?その・・・、クロの役目さ。」
 「お前は、自分の運命を知っているか?」
 クロはまたしても淡々と、突拍子も無いことを言い出した。
 「・・・いや、知らない。」
 「運命は神様が決める。本当のお前の運命は、こんな所では死なない。まだまだ長生きする。」
 「待って。本当の運命って何。自殺をするのは僕の運命じゃないの?」
 「違う。全ての生物の運命を作る神様だが、自殺は生物のルールに反するとしてただの一回も組み込んだことがない。人間は運命に逆らって自殺をしようとするのだ。少しなら見逃してやったが、最近は自殺をする者が増えてきた。だから、神様は自殺をしようとする者の運命を変え、病死や事故死にすることにしたのだ。」
 「それで、もう一度逆らえないように見届け役として、クロがいるって事?」
 「儂がいるのは寧ろ、お前が死んだ後、罰を受けさせるためだ。」
 「罰があるの?」
 「自殺をしようとする者には、例外なく神様が罰を与える。お前の魂は罰として、死んだ後この黒猫の身体に入り、少しの間、猫の姿をし、この世界で生きて貰う。この世界から消えるのはその後だ。」
 「クロの身体に入って生きる?それが罰なの?」
 「ああ。ただし、今回は少し神様が凝ったようだ。お前はこの初雪に埋もれて真っ白な白猫に変わる。そして、雪が溶け春が顔を出した時、お前の白い身体は雪と同様に溶けて無くなる。勿論、魂もその時一緒にこの世界から消える。」
 「・・・死ぬ前の執行猶予みたいなものかな?」
 「・・・違う。実刑だ。」
 初めてクロがおどけてくれたように見えたが、どうやら本当にこれが罰らしい。今更余命を貰っても仕方ないけれど、別段重い刑罰に感じなかった。
 「お前に自殺の意思があるとわかり、神様は儂を黒猫の姿にして送り込んだ。決意が弱まった時、そっと運命の流れに戻すためにな。だがお前の決意は固く、どうしても自殺をしたいようだった。儂を道連れに殺してしまうくらいにな。だから神様は仕方なく、自ら手を下すことにしたのだ。神様が手を下せば、折角作った運命の流れが大きく変わってしまう。本当はお前と関わる筈だった人間の運命も変えてしまうからな。だからそれを償う為に、罰を受けてもらう。」
 どうやら、僕は神様に逆らった罪で、もう少し生きるようになるらしい。てっきり神様に逆らえば、いわゆる地獄という場所に行くのだと思っていたけれど、随分と人間は反逆罪を重く考えていたようだ。
 「なんだ。この罰が軽いと思っているのか?恐らくこの罰は、神様が人間に与える罰の中では最高刑だぞ。それに、よく効くしな。」
 「まあね。僕としては、目的だった死もついてきたんだから寧ろ満足してるよ。ところで、罰はいつになったら来るの?僕がここに付いてから結構経つよ?」
 「案ずるな。丁度今、来た。」
 クロがそう言った直後、急に胸が苦しくなった。まるで、大きな手が心臓を握り、つぶそうとしているようだった。息が上手く出来ない。大きな手は僕の心臓を容赦なく締め付け、僕は口を精一杯開けながら膝をついた。
 「苦しいか。それが死というものだ。本来、死は皆平等に苦しい。蝋燭の火は自然に消えるのではない。蝋が無くなり、燃やす物がなく四方八方を囲まれ、苦しみながら消えるのだ。だが、死はそういうもので無くてはいけない。死に苦しみがあるからこそ、生物は死に怯え、生に拘れるのだ。蝋が残っているのに、苦しみから逃げるように火を急に絶つことは許されない。」
 クロは相変わらず淡々と僕に話をしているけれど、痛みのせいか良く理解出来ない。クロの声は確かに聞こえているのだが、僕の脳味噌は痛みという緊急信号を全身に送ることで精一杯で、クロの声を解析してくれないのだ。
 「そろそろ命が尽きるな。では最後にお前が猫になってからの話だ。お前は猫になったら、特に何かをしろとか、そういった命令はない。ただ、雪が溶けるまで死ぬ事はどうやっても出来ない。そして、雪が溶ければ必ず死ぬ。死んだ後のことは、・・・」
 クロの話は、途中から殆ど聞こえなくなった。

 大きな手が、心臓を握る力を強める。

 脳味噌の緊急信号は、意味の無い叫び声に変わった。

命を繋ぎ止めようと必死にもがいていた身体も、司令塔である脳味噌の錯乱と共に動くことを止めた。ついに僕の身体は、死を受け入れることを決めたようだ。

 今まで、自殺を決意した僕の心に、最後まで抵抗してきた頑固な身体。

 激痛を全身に走らせ、僕の邪魔ばかりしていた意地の悪い身体。

 けれど、もう僕の死を邪魔するものはいない。僕は今、この上なく幸せだ。過程はどうあれ、僕は自らの悲願を達成したのだ。気づけば、いつの間にか痛みは消えている。それどころか、心地よさすら感じる。まるで、柔らかなベッドの上で、逆らえない眠気に身を任せ、瞼を閉じるような・・・
 僕は意識を失い、その場に倒れ込む。いつの間にか降る量が増えた雪が、僕の身体に積もり、僕は雪に埋もれた。

 

 急に、僕は体中に冷たさを感じた。意識が戻ったのだ。目を開けようとすると、冷たいものが瞼を越えて入ってきて上手く開けない。そこでまずは起き上がることにしたのだが、上半身を起こそうとしても上手く力が入らない。そこで下半身にも力を入れ、思いっきり立ち上がった。
 恐る恐る目を開く。夜は明け、朝が来ていた。薄い雲越しの太陽でも眩しく感じる。辺りには昨日の雪で銀世界が広がっている。クロはいなかった。

 その代わり、僕の目の前には、僕が倒れていた。

 雪で身体の殆どは埋もれているけれど、今まで鏡で何度も確認していて間違えることはない。

 こいつは僕だ。
 決まり事を消化するように僕は僕の生死を確認する。乗っている雪をどかし、耳を近づける。心臓の鼓動は聞こえなかった。僕の肉体は昨夜死んだのだ。
 そして、僕は後回しにしていた今の僕を確認する。もう十分目に入っている筈なのに、思わずまじまじと両手を見てしまった。そこには、手と言うよりは足と言ったほうが正しい、真っ白な毛で覆われた僕の手があった。

 僕は白猫になったのだ。昨夜の幻想はやはり現実だった。
 「にゃあ・・・。」
 とても自分の声とは思えない甲高い声が、雪化粧の森に響いた。
 
 というわけで、僕は神様の決めた運命に逆らった罪で、白い猫になったんだ。けれどこの時はまだ、この罰による苦しみ、そして神様が罰を通して僕に何を伝えたかったのか、理解出来て無かったんだ。
 さて、この後は、僕が猫になってからの数ヶ月を書いていきたいと思う。もう少しだけ、お付き合いください。

短編№1 拝啓、白猫より②

 さあ、まずは僕が人間だった頃の、一つの事件を書いてみようと思う。多分、あの事件を起こしたから、僕は神様に目をつけられて、こんな姿になったんだろうから。
 
 夏はとっくに過ぎ、秋も半分くらい過ぎたあの日、僕はいつものように昼になるまでベッドの上でごろごろとしていた。

 本当なら高校に行かないといけないけれど、二学期が始まってから僕は一度も学校に行っていなかった。要するに不登校というやつだ。けれど、別に苛められたとか、勉強について行けないとか、好きな子にフラれたとかいう、ありきたりな理由があるわけではない。確かに、彼女はおろか友達もいなかったし、成績もビリに近かったけど、そんなことは我慢して登校することも出来る。

 ただ僕は、その我慢をしたくなかったんだ。
 小さいときから、何かに秀でたものを持っているわけでもなく、ただ敷かれたレールの上を進んできた。レールは時々向きを変えて、僕は体操教室に通ったり、ピアノを習ったりした。けれどただレールの上を走るだけの僕は、土台の変化に感化されることはなく身体だけを大きくした。やがてお父さんが死んで、レールが向きを変えなくなると、僕は社会に向けて真っ直ぐ走る一本道を何も考えずに進んだ。

 そして高校三年生になった今、僕は初めてレールから自力で脱線し、ひっくり返ったまま止まっているのだ。
 ベッドの上で、すっかり冴えてしまった目を無理矢理閉じ、僕は思考を巡らせる。

 学校に行く意味はあるのだろうか。ただただ、我慢をして勉強に明け暮れ、社会に出る準備をする。そして社会に出ても、ひたすらに我慢の日々だ。自分たちで作った紙切れと石ころみたいな金属の為に我慢して働き、自分たちで作ったルールで首を絞めながら生きる。そんな修行僧みたいな生活を僕はしたくない。でもレールの上に乗っている限り、僕も間違いなく修行僧コースだ。あとはただ、修行の成果を紙切れの量で見せ合いながら、寿命を迎えて死ぬ。なんだそれは。全然楽しくないじゃないか。
 それでも、僕が今までレールに逆らわずに進んできたのは、実は僕を導いているのはレールじゃなくて、レールを作った大人であり、レールを支える社会だと薄々気づいていたからだ。
 僕のレールを作ったのは父さんだった。僕の家では父さんの選択が正義で、母さんは正義を見守る銅像。そして僕は正義を執行される駒だ。僕は生まれてこのかた、父さんの思うままに生きてきた。けれど父さんも、僕を社会に向かう道を外さないようにレールを敷かされていたのだろう。悪いのは父さんじゃない。このきつく縛られた社会であり、世界だ。
 楽しい世界に生まれたかった。何よりも自分の思うままに生きても、白い目で見られない世界が欲しかった。お金が無い世界が良かった。仕事なんてしないで、人間としてではなくて、ただの生物として生きられる世界で暮らしかった。それが僕の理想郷だ。
 不意に下の階からジリジリと電話が鳴る音が聞こえてきた。高校からの電話なのか、それともキャッチセールスの電話なのかは分からないけれど、母さんがパートに出ている今、その電話に出る者はいない。電話は十回程コールをした後プツリと切れた。
 家に籠もりだしてから、高校からは数日おきに電話が掛かってくる。この間なんか、わざわざ担任が家まで来て話をさせろと言ってきた。心を閉ざした生徒を助ける為か、教育委員会に努力をアピールする為かは分からない。いずれにしても、高校はなんとか僕を登校させようと必死みたいだ。いくら家に引きこもって心を閉ざしても、完全に社会から逃げ出すことは不可能だ。小さな錆が抵抗した所で、歯車は回り続ける。 
 しかし、殆ど大人と変わらないくらいに大きくなった僕は、この社会に向かうレール、そしてレールを導く土台から脱出できるかもしれない方法を一つ発見していた。確実に成功する保証がないのは、たとえ成功しても、その様子を誰も見ることが出来ないからだ。けれど、今まで何人もの人が挑戦してきたこの方法が、恐らく一番可能性が高いのだ。
 ベッドから降りて、パジャマを着替える。箪笥の中で一番上等なズボンを穿き、白い新品のワイシャツにお気に入りの小豆色のセーターを着た。今日、僕は試してみようと思ったのだ。世界から脱出する方法を。
 身なりを整えると、僕は貯まった小遣いを握りしめ、玄関に向かった。さて、まずは最後の晩餐の調達だ。

 コンビニで買ってきた昼食をテーブルの上に並べる。チルドのオムライスに、イクラのお握りが一つ。コーラ一本。それとデザートのシュークリーム。全部で千円程だ。
 威勢良く外に出たのは良かったけれど、僕は最後の晩餐に何を食べるか決めていなかった。外食は慣れてなかったから家に持ち帰るのは確定としても、特に思い出のある食べ物が思い付かなかった。だから、コンビニで食べたいものを好きなだけ買うことにした結果、よほどこの世界での最後になる食事に見えない寂しいものになった。刑務所にいる死刑囚のほうがマシな晩餐をするかもしれない。
 元々僕は少食で、しかも食べ物に拘らない方だった。嫌いなものも無ければ好きなものも無い。出されたものは綺麗に食べるけれどおかわりはしない。そんな調子だったから、今更最後の晩餐などと意気込んでも、 それに相応しい食事を用意出来るはずも無かった。 けれど、ある意味この食事は死への階段を登る儀式みたいなもので、疎かにするのは後味が悪かったのだ。
 食事を終え、二階に上がる。部屋に入り、いよいよ死ぬ準備をする。机の上には、前もって書いておいた遺書が置いてある。内容は至ってシンプルだ。特に不満をつらつらと並べたわけでも無く、ただ葬式は簡素でいいと言うのと、一言母さんに、今まで育ててくれてありがとうと書いてある。自殺をして新たな世界に向かうなんて一言も書いていない。そんな突飛な発想をわざわざ書いても首をかしげるだけだろう。
 死んだ先に、何が待っているかなんて知らない。そもそも僕を待ち受けるものなんて無いかもしれない。物事を考える意識すらないかもしれないし、少しも変わらずループをして、この世界で生まれた時に戻るかもしれない。所詮あの世や天国や地獄なんてものは人間が都合よく考えた理想郷に過ぎない。そんなことは分かっているのだ。それでも、自分の理想郷にしがみついていかないと、絶望で気が狂ってしまう。  

 僕も、そして僕以外の人間も、きっとそうなんだろ?
 

 椅子の上に乗って、天井にフックを刺していく。ネジを押し込んでいく度に細かい木の粉がパラパラと落ちた。根元までしっかりと押し込んだら、太い麻縄をフックに結びつけた。さあ、いよいよだ。頭と同じくらいの大きさに作った輪っかを首に通す。今僕を支えている椅子をどかせば、僕の身体は宙に浮き、首が絞まって死に至る。
 同級生の皆。教鞭をとってくれた先生。お小遣いをくれた祖父ちゃん、祖母ちゃん。母さん。さよなら。僕は今から理想郷に向けて旅をする。

 お父さん。僕はそっちには行かないよ。僕とお父さんの天国は違うんだ。

 フッと息をつき、身体の力を抜く。目をつぶる。そして、トンッと椅子を蹴った。

  急に麻縄が僕の首を絞めた。細かい麻縄の棘が一斉に首の皮膚に突き刺さる。首筋に走る痛みと共に、急に胸の辺りから酸素を求める悲鳴が上がってきた。

 僕はたまらず口を開け、船上に揚げられた魚のようにぱくぱくと空気を求めたが、空気が肺に送られることはない。僕の首は今、完全に締め付けられているのだ。身体は麻縄から逃げようと、自殺の意思に刃向かい暴れ、足は地面を探して空気を蹴る。苦しい。身体が熱い。こんなに辛いなら別の方法を取ればよかったと嘆いてみても、麻縄は僕の首を固く締め付け、今更緩めてくれる気配はない。

 まだか。くそ、しぶとい身体だ。僕は一刻も早く楽になりたい。いい加減にくたばれよ!!
 ああ、苦しい、苦しい!
 もうすぐ、もうすぐ死ねる!
 僕には分かる・・・もうすぐ僕の身体は限界を迎え、魂を解放してくれる!  さあ、麻縄よ、僕を絞め殺してくれ!!
 死にたい!!死ぬ・・・死ぬ、死ぬ!!!
 
 ブズ!!!
 不意に聞こえてきた音は死を告げる合図ではなく、僕の身体は重力に負け、ドスンと床に落下した。せき止められていた空気が肺に入ってくる。いち早く酸素を全身に送ろうと、咳き込みながらも空気を吸う。どうしても身体は死のうと思わないらしい。
 僕は天井を見上げた。しっかりと刺した筈のフックが抜け、僕の身体は不覚にも助かってしまったのだ。やっぱり、首吊りじゃなくて飛び降りとかのほうがいいのだろうか。
 首筋に手を当てると、不気味な柔らかさに変化した皮膚から、鮮やかな血が手についた。首が絞まる苦しさを体感してしまったばっかりに、もう一度フックを刺して首吊りを図るのを躊躇っていると、扉の向こうで猫の脳天気な鳴き声がした。

 扉を開けると、一匹の猫が部屋に入ってきた。足の先から尻尾の先まで綺麗な黒い毛で覆われているから、僕と母さんはクロと呼んでいた。クロは最近、近所をフラフラとほっつき歩いている猫で、気が向くと僕の家に入れろと玄関の前に座っている。どうやら朝に猫好きの母さんが招き入れていたようだ。 
 自殺未遂の現場に現れたクロは、椅子と麻縄が散乱している床を刑事のようにじっと眺め、器用にぐるりと部屋を一周して、全てを見抜いたとでも言うように、ベッドの上に乗ってニャアと鳴いた。
 クロの頭を撫でる。艶のある頭は触っていて落ち着く。ぐるぐると喉を鳴らして気持ちよさそうにしているクロを見ていると、猫のような生き物がこの世界で一番楽しく生きているように思える。自由気ままに歩き、寝て、食べ物を貰う。可愛げのある声で鳴き近づいていけば、相当の猫嫌いでも無い限りは危害を加えることはないし、大抵の場合はまさに猫撫で声で頭を撫でてくれる。ただベッドの上で寝ているだけで癒やしだとか言って重宝される。

 人間の場合それはただのニートだというのに。
 次に生まれる世界では、猫の姿になってもいい。愛嬌たっぷりの猫になって、皆に可愛がられながら生きて、日向で一日中、日光浴をしていたい。
 その時、撫でられる事に飽きたのか丸くなって寝ているクロを見て、不意に僕は思い付いた。
 クロも、世界を超える旅に連れて行こうかな、と。
 死んだ後で、僕と同じ場所にクロと一緒にいるかは、死んでみないと分からない。そもそも、僕は父さんのいる所には行きたくないのに、クロとは一緒の所に行きたいと言っているのだから、我が儘も良いところだとは思う。けれど、元から都合良く考えた可能性に縋り付いているのだし、この際とことん都合良く考えてもあまり変わらないと思う。
 自殺を考え始めた頃から、死んだ先に知り合いがいないのが一番の問題だった。けれど、僕と一緒に死んでくれる仲の良い友達などいるはずもないし、母さんに頼むのも気が引けた。それで同行者は諦めていたのだけれど、クロは適任だ。言葉が通じない分、クロがどれだけ反対し、自殺を否定し、説得を始めても耳に入ってはこない。クロが一緒なら、心細い一人旅では無くなるし、たとえ真っ白な何もない空間に飛ばされても、頭を撫でて気晴らしが出来る。
 台所から包丁を持ってきて、自分の胸に刃を向けてみる。この両手で持った包丁と胸の間にクロを置き、思いっきり包丁を心臓めがけて刺せば、僕とクロはほぼ同時に死ねるだろう。包丁で自分を刺すのはあからさまに痛そうなので避けていたのだけれど、クロと一緒ならなんとなくその痛みも和らぎそうな気がした。
 ベッドに仰向けで寝て、胸の上にクロを置く。クロは何だか不思議そうに首をかしげたように見えた。けれど大人しく僕の上で座り、じっと僕の顔を見つめている。僕は、包丁を両手で祈るように持ち、クロの上で構えた。

 ・・・クロ。一緒に行こう。

  僕は思いっきり包丁を突き刺した。ごりっとした、骨を掠めたような感触が包丁を通し手のひらに伝わる。包丁が突き刺さった瞬間、クロは一度大きく身体を震わせた。艶々の黒い毛が棘のように逆立って張り詰めた。僕を見つめていた丸い目は、眼球が飛び出そうな程の凄みをきかせ、視点を宙に逸らしたままぴくりとも動かない。その様子はまるで、自分は命を宿していた者であることを、周囲に、つまりは僕に訴えているようにみえた。しかし、一瞬の訴えもつかの間、張り詰めたクロの毛は力なく倒れ、宙に逸らした目からは凄みが消えた。ああ。これが、死なのか。生気が、魂が抜けていく様子なのか。今まさにクロの目に見えぬ魂は器であった黒猫から抜け、新たな世界へ旅立とうとしている。
 僕はいつの間にか、包丁の動きを止めていた。僕の身体にはまだ刃が届いていない。もう少し力を込めて包丁を押せば、刃はクロの身体を貫通し、その勢いのまま僕の身体に、心臓に刺さるだろう。そうすれば、僕は死ねる。クロと共に、新たな世界へと旅立つ事が出来る。そう思うと、僕の手の平から汗が滲んできた。このままじゃ、クロに寂しい思いをさせてしまう。僕はもう一度力を込め、包丁を押した。クロがまたぴくりと、けれど今度はずいぶん弱々しく震えた。突然痛みが全身を駆ける。痛い。包丁の先端がついに僕の胸まで届いたようだ。まさに突き刺すような痛みだった。けれど、恐らく包丁はまだ、僕を死に至らしめる深さまでは刺さっていない。もう少し。もう少し深く刺さなければ。身体の穴という穴から吹き出る汗と共に力を振り絞り、僕は包丁を更に深く刺し込んだ。包丁を心臓に向け進ませる度に、かけ算のように痛みは増していく。死ぬと言うことはこれ程までに痛いのか。いや、もっと良い方法がある筈だ。痛みを伴う死の淵に自らを追い込んでおいて、まだ僕は痛みから逃げようと思考を巡らしていた。毒薬。毒ガス。飛び降り。人身事故。まだまだ自殺の方法はある。

 わざわざ、こんな死に方をしなくてもいいだろ。

 そんな思いが包丁を奥へと進める手を止めていた。クロには、後から追いつけばいいさ。どうせ僕はこの世界で生きる気は無いんだ。それより今は、この痛みから逃げたい。

 もう・・・耐えられない。

 僕は痛みから逃げるように包丁を抜いた。ずぶっと鈍い音が部屋に響く。クロは震えなかった。包丁を抜いた傍から血が吹き出し、顔に掛かった。不気味な生暖かさがそれにはあった。猫という生き物の中に入っていたとわかる生暖かさが。クロはだらりと力なく伸び、動かない。ベッドから身体を起こす。ぬいぐるみのように胸の上からクロがごろりと転がり落ちた。自分の胸を触ってみる。おびただしい量の血は殆どクロのもので、僕の胸は軽く切れ込みが入っただけだった。
 クロのお腹の辺りに手を当ててみる。いつもならポンプのように膨らんだり萎んだりして動いているのに、今は平らになったまま動かない。

 クロは死んだのだ。
 全く動く気配のないクロを見つめているうち、後悔の念が込み上げてきた。僕の我慢が足りなかったせいで、クロを先に行かせてしまった。クロは、死に至る痛み、苦しみを受け止める事しか出来ず、そのまま死んだ。僕は、自分の意思で胸を刺すがために、痛みからの逃げ道があったのだ。自殺の意思とは関係ない、生物の本能のようなものが働いてしまったのだ。
 ごめんよクロ。今すぐに僕もそっちに行きたいけど、今日、僕は痛みに勝てそうにないや。けれど、近いうちに必ず僕は自殺をしてみせる。次は、飛び降り自殺をしよう。
 「ただいまー。」
 突然、睡眠状態をたたき起こすように母さんの声が耳に入ってきた。パートから帰ってきたのか。時計を見ると既に夕方だった。
 「・・・祐介ー。いないのー?」
 母さんが僕を呼んでいる。それはまるで、脱獄者を捕らえようとする看守の声にも、遭難者を探すレスキュー隊の声にも聞こえた。
 「いるよー。お帰り。」
 僕は部屋から大きな声で返事をしながら、無意識にベッドカバーを剥がしてクロを包んでいた。

 これで、事件の話は終わり。僕は死にたくて死にたくて、でも死ねなかった。それで、つい出来心でクロを殺してしまったんだ。でも、これだけじゃあ、まだ僕が白い猫になったわけなんて理解出来ないでしょう?大丈夫。物語はここから後半戦だから。では。